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【感想】harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」とは何の物語だったのか【ハルモエブログ】

 

👼CONTƎИTƧ👿

 

🍎Prologue


──“Love is a fiction, but love is a reality!


画像はすべて『【harmoe】『セピアの虹』Music Video Full ver.【1stアルバム】』より引用
(下段の文章は筆者加筆)

 

【harmoe】『セピアの虹』Music Video Full ver.【1stアルバム】 - YouTube


🍎善と悪。空想と現実。

2ndツアーのコンセプトは、かなり早い段階から仄めかされていた。『GOOD and EVIL』というタイトルが発表されたのは3月8日──ミニアルバム『Villans:impress』の発売記念生放送で、これはなんとライブから半年近くも前のことだった。

以降、公式X(旧 Twitter)等では度々、「善と悪の物語」というフレーズを用いて、ライブのアナウンスがなされていく。さらに数か月後、リリースイベント内のミニライブでは、まるで既存の歌詞を引用するかのような形で、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖にとっての“善悪”の何たるかが示された

いい子ぶって愛想笑いしてるなんて
Wonder girl, Wonder girl

Wonder girl / harmoe

いつかいい子になれるといいな

ふたりピノキオ / harmoe


それぞれ、“いい子ぶって愛想笑いしてるなんて”・“いつかいい子になれるといいな”というフレーズが、悪性と善性を象徴していたように思う。
そして、いざ迎えたライブ本番では、白と黒を取り入れた衣装や、幕間における「善も悪も私」のナレーションなど、兼ねてよりのコンセプトが、これでもかというほど表現されていた。こうして見ると、2ndツアーは確かに『善と悪の物語』だった。1stツアーのアンコールで突如映された文言“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go to the villans world”から、一年越しの伏線回収が果たされたと言っていい。

だが、それだけだったのだろうか。

天秤にかけられていたのは、善と悪だけだったのか。『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』とは、本当に“善と悪だけの物語”だったのだろうか? 結論から言うと、答えは“NO”だ。ひょっとしたら善悪さえも、より大きな“目的”を叶える“手段”の1つに過ぎないのではないか?‥‥というのが、私の考えである。


私が上記の疑問を抱いたのは、ライブ後の打ち上げアフタートークにおける、沢口かなみ先生の発言がキッカケだった。

はるちゃんはしっかり正確に踊るタイプの人で、もえぴは結構パッションの人だなって印象。でも、通して見てて、QUEENらへんの はるちゃんは、らしくないくらいパッションに傾いてて(…)いつもの正確さも はるちゃんのいい所なんだけど、2人ともとってもパッションで良かった

(2023. 8. 17 『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」打ち上げアフタートーク』より一部抜粋)

“正確さ”と“パッション“
先生も言うように、本来これらに良し悪しは無い。実際、『QUEEN』における岩田さんは、目を離せなくなる気迫に満ちていた。だが、この文言だけを切り取ってみると、なんとなく“パッションの方が、正確さよりも重要である”と取れなくもない。実際、両者を対比するとなると、中立の基準が無いことに気付くのだ。
たとえば、かたや“正確さ”を基準にしたとき、パッション全開な踊り感情任せで不正確。かたや“パッション”を以て比べたら、正確な踊りには冷淡の評価が下りてしまう。これではいけない。早い話、

のような、優劣のつかない線引きが欲しいのだが‥‥現時点でそれを引く物差しは見当たらない。どうしても、基準がどちらか優位に寄ってしまう。ならば“正確さ”と“パッション”は、なにゆえに“対等”なのだろうか。ここからは一度、別の視点から考えてみよう。

──たとえば、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”と、“今回のライブ”なんてどうだろう?

 

この項では最初に、私が尊敬してやまないクリエイターの提言を紹介する。

世の中の“創作ブツ”を見渡してみると…小説からマンガから歌詞まで、『作り手が“おのれ”をさらけ出す』タイプと『あくまで“作りもの”として自分を出さない』タイプがある

(ゲームディレクター・巧舟)

https://x.com/takumi_gt/status/1109081802235207680?s=20

 

‥‥この言葉を借りるなら、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまで”は後者。まさに『作りもの』であった。

1stツアーのタイトル『This is 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 world』に象徴されるように、彼女たちのライブは、世界観が徹底して作り込まれた、まるで舞台を観ているかのようなライブだった。いくつか例を挙げよう。


1/3 : スタッフクレジット
まずは、オープニングのクレジットだ。𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブはいつも、演者は勿論スタッフ全員のクレジットから始まる。これは、普段日の目を見ない『裏方』へのリスペクトと言えよう。だが、込められた意図は、必ずしも敬意だけではない。

これから始まる物語を舞台のように見せる
つまりクレジットには、観客の意識を物語の世界へ引き込む狙いがあったのだ。


2/3: ライブ中の“仕掛け”
ライブ本編が始まっても、この“没入させる仕掛け”は止まらない。顕著に表れていたのは、1st・2ndツアー両方で披露された『passport』だろう。

この曲が披露されるとき、演者たちの表情は、観客からは見えなくなる。イントロと同時に、舞台に『紗幕』がかかるからだ(なお、1stでは演者の背後に・2ndでは手前に幕が降りていた)。

しゃ-まく【紗幕】
主に舞台などで使う、薄く透ける素材でできた幕。そのため、照明を使った印象的なシーンに活用することができる。

(https://www.homemate-research-hall.com/useful/glossary/hall/1595201/)


ライブにて、紗幕はスクリーンの役目を担い、そこには揺蕩う水面の映像が投影された。客席から見た舞台は、さながら巨大な水槽のよう。私は1stツアーを最後列で見ていたのだが、まるで箱庭を覗いている錯覚さえ覚えた程だった。

 

3/3: “筋書き”と“矜持”
極め付けは、中村彼方さん書き下しの“筋書き”だ。
彼女によって、ライブにはそれぞれ、“1st = 世界旅行”“2nd = 善悪の図書館”という軸が通された。これにより、バラバラだった楽曲群の間には繋がりが生まれ、いつしかそれは、数珠繋ぎのような連続性をもつ“物語”の形になった。ここでいう物語とは空想。すなわち、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”は『作りもの』だったのである。

また、ここまでは舞台上で起きていることの話だけをしてきたが、演者が舞台にかける想いも見逃せない。特筆しておきたいのは、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“はる”こと岩田陽葵さんの“舞台人としての矜持”だ。
岩田さんは、2023年5月23日、横浜国立大学にて開催された『はるてるゼミ!in横国』に出演。「舞台に立つ上で譲れないこだわりは何か?」という質問に対して、以下のように答えていた。

ショーとして純粋に楽しんでもらうため、稽古の過程は客に見せない。『岩田陽葵』を出さないようにしている(※)

(2023. 5. 21 『はるてるゼミ!in横国』)

※ イベント内の会話を筆者がメモしたものです。
  細かなニュアンスに差異がありますがご了承下さい。


その他、「稽古中はツイート(現X ポスト)が減る」「ここが大変とかは言わない」と話していた彼女。このように、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブでは、演者・裏方の双方が、ステージから“現実の要素”を排している──否、排していたことが見て取れる。言ってしまえば、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブは“空想の世界”だったのだ。だが、これはあくまで“これまで”の話。では、“今回のライブ”はどうだったか。

 

youtu.be

 

ときに、水に絵の具を垂らし、色が広がる様子を撮る──このような撮影技法を、俗にインクドロップというらしい。これの面白い所は、たとえわずかな絵の具でも、水の色はまるっきり変わってしまうということ。ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を起こすように、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブでも、持ち込まれた幾つかの要素がステージの様相を一変させた。そんな、彼女たちにとっての“バタフライ・エフェクト”こそが、他ならぬ現実なのである。私の考えはこうだ。

今回の2ndツアーには、これまで無かった現実の要素が加わり、その結果、ステージの在り方が様変わりしてしまった。つまり、2ndに“現実”はあったのだ‥‥故意か偶然かは別にして。

『【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】』より引用

【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】 - YouTube


1/n: 予期せぬ事実

持ち込まれた“現実”の中で特に印象的だったのは、やはり“2ndツアーは開催そのものが危ぶまれた”という予期せぬ事実だろう。

ご存知の通り、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の2人はそれぞれ、ニコニコ生放送やWEBラジオでレギュラー番組を持っており、そのほか、自身が声を担当するアニメのイベント等にも多数出演している。だが、リハーサルも含めたツアー期間中、これらの番組・イベントでは、体調不良による出演調整・キャンセルが相次いだ。
今だから言えるものの、欠席の知らせが飛び込むたび、私の脳裏には、否が応でも『中止』の2文字がよぎってしまったものだ。そこで本項では、ツアー期間中のアクシデントのうち、2人が“生出演”する予定だったものに限って抜粋し、紹介してみようと思う。

【表①】 harmoe 2nd LIVE TOUR 開催までの経緯

筆者作成

※ 表の見方は、左から順に
  日付/予定されていたイベント/出演者 と読む
※ WEBラジオなど収録番組については、
  収録日が不明の為リストから除外した


WEST公演以前で目立つのは、小泉さんに関する『発声を控える形での出演』の一文だ。この時期の小泉さんには“嗄声”の症状が認められ、医師から声を出すことを禁止されていた。そのため、出演したイベントにて彼女は、声の代わりにジェスチャーやスケッチブック、タブレット端末等を駆使してコミュニケーションを取っていた。文字面・絵面だけを見るとコミカルだが、“ライブ直前に発声が許されない”ことの深刻さは想像に難くないだろう。なぜなら、ライブ直前といえば、リハーサルやゲネプロを通じて公演の細部を詰めていく時期だから。結果的にWEST公演は無事に開催されたものの、ブラッシュアップに充てる時間は、1stと比べても確実に少なかったハズだ。

さ-せい 【嗄声
声帯に病変があるため音声が異常な状態。しわがれ声・かすれ声などの状態

(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%97%84%E5%A3%B0/)


また“不運”は、WEST公演からEAST公演にかけても止まらなかった。むしろ、『くままま』では小泉さん・『サイン会』では岩田さんが、それぞれ体調不良のためにイベントを欠席している。これまでは──形式を変えながらではあるが──出来ていたことが出来なくなったのだから、事態の深刻さは火を見るよりも明らかだ。もちろん、大事を取っての欠席という可能性もあるだろう。だが、いずれにせよ、WEST公演と同様にEAST公演も、開催までに幾つもの障壁があったことには違いない。

このように、『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、2人の体調不良、ないし“ライブ中止の危機”を乗り越えて千秋楽を迎えた。これは、言い換えれば、“開催が危ぶまれた”という予期せぬ“現実”の要素が、ライブという“空想”の文脈に盛り込まれた瞬間でもあったのである。

 

2/n: 『Villans:impress』の特異性
2つ目の“現実”は、ミニアルバム『Villans:impress』、そのコンセプトだ。
『Villans:impress』といえば、本ツアーの一翼を担った作品で、“様々なおとぎ話の「Villans」をモチーフに”することをテーマに掲げている。

これまでにない作風は、我々に強烈な印象を与えた。前述した、公式による『善と悪の物語』のアナウンスも相まって、“本作の醍醐味=敵役(ヴィランズ)目線”という共通認識は揺るぎなくなったと言って良い。確かに、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖がこれまでに表現してきたのは“おとぎ話の物語”──抽象化された世界そのもの──止まりだったから、そこから一歩踏み込んだのは大きな転機だったといえるだろう。だが、本項の問題はあくまでコンセプトのどこが現実的なのかだ。
このままでは、いまいちピンと来ないだろう。というのも、“新鮮さ”と“現実性”の関係は、別に等式にはなり得ないからだ。注目すべきは、もっと根本的な所にある。

つまり、『Villans:impress』のコンセプトが現実的な理由は、本作において𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は、曲毎に特定の役を演じているからなのである。

M1.QUEEN
不思議の国のアリス」ハートの女王

M2.Brilliant and bad
「ダルメシアン 100と1ぴきの犬の物語」クルエラ

M3.アンチクライアント
「アラジンと魔法のランプ」ジャファー

M4.眠れぬ森
「眠れる森の美女」マレフィセント

M5.VOICE
「人魚姫」アースラ

M6.Unfair Mirror
「白雪姫」女王

(https://harmoe.jp/disco/impress_canime/)


‥‥「演じるならむしろ非現実では?」
という疑問はごもっとも。例によって、順番に話していこう。

前述したように、“敵役目線の楽曲を歌う”とは、“曲中でその役を演じる”こととほぼ同義だ。これは、感覚としては、アニメのキャラクターによる挿入歌に近い。挿入歌といえば、俳優というよりむしろ、俳優の演じるキャラクターが曲を歌っているイメージだろう。同じことが、『Villans:impress』でも行われていたのだ。『QUEEN』ならハートの女王・『Brilliant and bad』ならクルエラというように、本作の楽曲はキャラクターソングとしての性質が強いのである。
ここで肝心なのは、これらの楽曲を“客前で披露する”とき、演者は歌声に加えて全身をも用いてキャラクターを表現するということ。特に強調したいのは、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のふたりの、鬼気迫るまでの“表情の作り込み”だ。

たとえば『VOICE』における、岩田さんの悲痛を背負った微笑み。「広い海原と束縛はもううんざりなの」と手枷を断ち切るときの、腕と頬の強張り。また、それを見つめる小泉さんの不敵な眼差し‥‥。他にも挙げればきりがない。これらはすべて、ふたりが生粋の『舞台人』であるからこそ実現した表現と言えるだろう。


そして、この岩田さんの“悲痛な笑み”を見たとき、私は舞台『Collar×Malice -白石景之編-(悲恋エンド)』のラスト──最も悲劇的な形で、最愛の人物に運命を委ねる主人公・星野市香の姿──が脳裏をよぎってしまった(ポストの画像3枚目)。


必ずしも同一作品ではないだろうが、貴方にもよく似た瞬間があったのではないだろうか。“あのときの舞台・作品のキャラが、今回のライブに生きている感覚”だ。
言い換えれば、“演じる”という行為によって、これまでふたりが蓄積してきた経験が、ステージにフィードバックされていたのである。つまり、『GOOD and EVIL』は、演者にとっては“現実の経験値”が反映されたライブ。観客にとっては“現実の記憶”が呼び起こされたライブだったのだ。

 

このように、2ndツアーでは、他の何も差し込む余地のなかった“数珠繋ぎの空想”に、“現実”の要素が持ち込まれていた。個々の要素は、取るに足らない砂漠の一粒に過ぎないかもしれない。だが──虹の7色がグラデーションから成るように・蝶の羽ばたきが竜巻を起こすように──革新はいつも、些細な変化の積み重ねなのだ。実際、故意か偶然か、“現実”の要素を含んだ2ndツアーは、まったくの“作りもの”だった1stとは随分違って見えていたハズだ

 


閑話休題。話を戻そう。元々、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”と“今回のライブ”を比べたのは、“正確な踊り”と“パッション全開な踊り”が対等な理由を突きとめるためだった。これまでの話が無駄かというと、そうではない。むしろ、先の“空想と現実”の考え方を用いれば、いとも容易く疑問の回答を導けてしまうのだ。ここからは、方程式を解くように、問題の形を変えて考えてみよう。

1/2: “正確な踊り”
そもそも、“正確な踊り”とは、何に対して正確なのか。そう聞かれたとき、我々はもちろん“お手本”と答えるだろう。正確な踊りを目指す人にとって、ダンスの良し悪しは、振付師の動きにどれだけ近づけたかによって決まる。従って、彼等の“理想”は、お手本の完コピということになるだろう。
特筆すべきは、お手本とは、言い換えれば自分ではない誰かの“作りもの”だということだ。“作りもの”とは即ち“創作物・空想”だから、“正確な踊り”とは“空想に対して忠実な踊り”と言えるのである。

2/2: “パッション全開な踊り”
『パッション』とは、激しい感情もとい激情を意味する言葉だ。“パッション全開な踊り”を目指す人にとって、ダンスの良し悪しは、感情をどれだけストレートに表現できるかによって決まる。よって、これが全開なとき彼等は、昂る感情の赴くまま身体を動かしている──つまり、あるがままに踊っているのだ。
重要なのは、このときの感情は、りものではなく“元々自身に備わっていたもの”だということ。言い換えるとこれは、誰かの作りものではない、即ち“現実の感情”だから、“パッション全開な踊り”とは“現実に対して忠実な踊り”なのである

ここまで来たら、“正確さ”と“パッション”を比べる基準も見えてきたのではないだろうか。つまり、両者を対等たらしめる線引きとは、“空想と現実のどちらに忠実か?”。この条件において、“正確な踊り”と“パッション全開な踊り”は対等と言えるのだ

 

さて。紆余曲折を経たが、本項は、当初の疑問について一定の回答を出せたように思う。“Fiction and reality”“空想と現実”対をなす存在の両者だが、それは、ふたつが対等なことの裏返しなのだ。随分と長くなったが、本記事もこれにて〆とさせていただこう。

 

 

 

‥‥と言いたいところだが、ちょっと待って欲しい。

 

この記事の、本当の問題提起は何だったか?

 

“正確さとパッションが対等な理由”だったか?

 

‥‥いやいや、そんなことはない。

 

タイトルにもあるように、この記事が真に解き明かしたいのは、“harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」とは何の物語だったのか”だ。本節の冒頭で私は、「善悪は“手段”の1つに過ぎないのではないか」と書いたが、“空想と現実”さえも、とある目的を果たすための手段だとしたらどうだろう。

“現実”を話す際、本項では何度か「故意か偶然か」という枕詞を用いたが、果たして本当に、“現実”はたまたま持ち込まれたに過ぎないのだろうか?

 

‥‥結論から言うと、答えは“NO”だ。


🍎空想と現実。恋と愛。

画像は以下より引用
①『【harmoe】『きまぐれチクタック』Music Video Full ver.【1stシングル】』
②『【harmoe】『マイペースにマーメイド』Music Video Full ver.【2ndシングル】』
(下段の文章は筆者加筆)

https://youtu.be/Ze1LyBclEuM?si=YuktXygYxYyaO2AR
https://youtu.be/l9686I2-lxA?si=86BVZcS0hZa6n9jU

 

とはいえ。前節で触れた“現実”のうち、ひとつはあくまで不測の事態だった。もうひとつも、人によっては“単なる見え方の問題”に映ったかもしれない。確かに、現時点ではその見え方を否定出来ないし、少なくとも議論の余地は残るだろう。ただ、たとえふたつが偶然に過ぎなかったとしても、私は“現実=手段”の仮説を変えるつもりはないなぜなら、持ち込まれた要素は、なにもふたつだけではないからだ。“現実”の中には、明らかに意図的なものもあり、その一例と言えるのが、『Villans:impress』に収録された『アンチクライアント』、その歌詞である。

3/n: 『アンチクライアント』
この曲の“現実性”を語る上で重要なのは、“第四の壁”・“メタフィクション”の考えだ。
まず“第四の壁”とは、観客席(=現実)と舞台(=空想)の間に概念上存在する透明なカベのこと。原則的に、物語のキャラクターは、“壁”を隔てた観客を認識しない。だが稀に、彼等が我々の存在に気付いたり、あるいは話しかけてくることがある。古くはTVドラマ『古畑任三郎』の古畑任三郎・最近では『少女⭐︎歌劇 レヴュースタァライト』のキリン等がそれにあたる。

出典: 少女☆歌劇 レヴュースタァライト #12 「レヴュースタァライト

「私は今、画面の向こうの貴方に話しています」


とでも言うように、彼等は“こちら”に語りかけるのだ。そして、このように“第四の壁”が破られることを、現代では“メタフィクション”と呼ぶのである。ここまでを踏まえて、『アンチクライアント』が“メタフィクション”である理由を考えてみよう。“観客席”と“舞台”‥‥。それらを連想させるフレーズが無かっただろうか?

金曜日 すいてる映画館で観た
ヴィランズが与えてるメッセージ

アンチクライアント / harmoe


この一節から読み取れる内容はひとつしかない。すなわち、舞台の上でヴィランズを演じていたハズの𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が、客席(≒聴き手)側に腰掛けているのだ。先の定義に当てはめるなら、この歌詞は紛れもない“メタフィクション”だし、そこには明確な意図があると言えるのである。さらに言えば、ふたりが観客席に身を置いている以上、この歌詞も当然“現実的”ということになるわけだが──なればこそ、気になるのは𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が“現実”を盛り込んだ理由。必然も、偶然さえも巻き込んで舵を切ったその先には、一体何が待っているのだろうか


‥‥答えは驚くほど単純で、それは“次なる物語”だ。

 

前節で述べたように、1stツアーで映された“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go to the villans world”のフレーズは、ユニットの未来を占う指針だった。実際、告知以降、“敵役”をテーマに据えたミニアルバムがリリースされ、“善悪の物語”を謳った2ndツアーが敢行されたのだから、ライブにおける“アナウンス”は、彼女たちの“次なる物語”を暗示していると考えていい。すなわち、2ndツアーの最後に投影された一節、“With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”も、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の今後を象徴しているハズなのだ

With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE

harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」


ただ、1stと2ndでは大きく異なる部分がある。つまり、2ndツアーの文言は、前者と比べて明らかに“ライブとの結び付き”が強いのだ根拠となるのは、ミニアルバム『Villans:impress』のタイトルと、前述の“with “i””の部分である。

第一に、ヴィランズ』の正しい綴りは『villains』で、『Villans』ではない。本来あるハズの“i”は、アルバム名もとい1stツアーのアナウンスから綺麗に消えてしまっていたのだ。その後、失われた“i”がどうなったかというと、1stツアーから足がけ1年、2ndツアーの“フレーズ中の一単語”としてようやくの帰還を果たしたのだった。

ここまでを踏まえると、2ndツアーと𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これから”には連続性があると言えるだろう。そしてこれは、裏を返せば『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、“with "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”への橋渡しの役割を果たしていた──ライブの目的は、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“物語を繋ぐ”ことだったということになる。“善悪”も“現実”も、この目的を叶えるための手段だったのだ。


‥‥だが、これらの要素は、どうして“手段”たり得たのだろうか?

 

確かに、“善悪”や“現実”は手段であった。だが、手段とは道具のような物で、用途が分からなければ仕方ない。中世の農民にナイフとフォークを渡しても、彼等は食器を“鋭利な延べ板”くらいにしか思えないだろう。それと同じだ。手段を知るにはまず、“目的”を知らねばならないのである。そこで本項では、“With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”を読み解く所から始めようと思う。このフレーズの直訳は、こうだ。

“i”と共に、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖はLOVEを探しに行く


“look for A”は、“Aを探す”という意味の慣用句だが、問題はそこではない。現時点で私は、““i””と“LOVE”を訳さずに残している。理由はそれぞれ、““i””は、引用符(“”)で強調されているから・“LOVE”は、複数の意味を持つ多義語だから。言わば、たつの単語は、フレーズを理解するキーワードなのだ。ただし、逆に言えば、これらの訳を誤ると、解釈は明後日の方向に向かうということでもある。たとえば、以下に載せるのは、私の当初の勘違いだ。


愛と共に、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は愛を探しに行く


私は元々、「“LOVE”の意味は愛だろう‥‥“i”だけに」などと、“i”と“LOVE”を同一視していた。だが、これでは、“既に持っている愛を、わざわざもう一度探しに行く”という、奇妙な文が出来上がってしまう。従って、少なくともどちらか片方は誤訳。“愛”と読んではいけなかったのだ。

では、どちらを愛と訳すのかというと、答えは“LOVE”だ。もっと言えば“LOVE”には、よく似た言葉で“恋”の意味もあるが、ここでは絶対に“愛”を取らなくてはならない。それはなぜか?


1/2 : 恋と愛。
“LOVE”や“恋愛”の一言で片付けられることもあるくらい、恋と愛は混同されがちだ。確かに、誰かを好きという点で、両者が類似していることは間違いない。だが、似た者同士でありながら、わざわざ別の言葉が作られたのもまた事実。ふたつの間には、区別しなくてはならない“明確な違い”があるハズなのだ。まずは、それぞれの一般的な定義から押さえてみよう。

こい【恋】
特定の他人に強くひかれ、慕う気持ち(※)。

あい【愛】
① いつくしむ。かわいがる。
② たいせつにする。 ③ 惜しむ。

池田和臣, 山口明穂, 和田利政, 1960, 『国語辞典』旺文社.

※ 引用元には『特定の異性』と記載されていたが、
  ここでは『特定の他人』に改編してある。


正直、単体ではイマイチ違いが分からないだろう。
ここは一度視野を広げ、単語を用いた慣用句も見てみた方が良さそうだ。たとえば、恋ならば、“恋心を秘める”・“恋は盲目”。愛ならば、“愛を注ぐ”・“愛を込める”‥‥。

‥‥さて、今度はどうだろう。
違いが浮かび上がってきたのではないだろうか?

つまり、恋心を秘めるのは“心の内側”愛を注ぐ相手は、自分以外の誰か──すなわち“心の外側”にいる他人なのである。恋と愛では、“好意”という感情の矛先が、真逆を向いていたのだった。それだけではない。

恋は盲目とは、“恋をすると、人は周りが見えなくなる”という意味の言葉だ。これは、言い換えれば“恋をすると、人は自分が欲する情報しか取り入れなくなる”ということ。すなわち、彼等は不都合な事実を排除しているのである。良い部分だけを見て、悪い部分からは目を背けているのだから、恋には現実逃避の側面も認められるのだ。そして、現実から逃げた先にあるものはというと、それは自意識・ないし内宇宙。両者を一括りにした“空想の世界”だ

逆に、誰かを愛するとき、人は相手の良い部分も悪い部分も受け入れなくてはならない。それに、降りかかる不運や障壁さえも乗り越えなければならない。この意味で、愛とは極めて“現実的”な感情と言えるのだ


さて。これまで考えてきたのは、“LOVEの訳に相応しいのは恋か愛か”のハズだった。にもかかわらず、今や問題意識は、見飽きるほど出てきた二項対立にすり替わっている。すなわち、空想か現実か‥‥だ。『恋=空想, 愛=現実』として、With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”に代入すべきは、どちらの等式なのだろう?


2/2 : Love is a potion
この問題の鍵を握っているのは、やはり2023年10月11日発売の5thシングルだろう。
シングルの表題曲『Love is a potion』は、リリース以前、すなわち2ndツアーで先行披露された過去を持つ。アナウンスと同じ日に歌われた新曲は、いわばその“直系”ともいうべき存在。フレーズの意向を最も強く汲んでいるハズなのだ。
そこで本項では、『Love is a potion』の歌詞から、手がかりになる部分を探してみようと思う。

何回 騙されたり 傷ついても
話を キミが聞いてくれた

Love is a potion / harmoe

 

些細な毎日を 探検して ねぇ聞かせて

Love is a potion / harmoe


引用した歌詞には、彼女たちにとっての“LOVE”が凝縮されていると言っても過言ではない。順番に検討してみよう。まず、ひとつめの歌詞について。誰かに傷つけられたとき、その人が採り得る選択肢は以下のふたつだ。

A これ以上傷つかない為、自分の世界に閉じ籠る
B 痛みを受け入れ、この世界に留まる

Aが他ならぬ現実逃避であるように、選択肢はそれぞれ“空想”と“現実”に対応している。ここでは、実際にその状況に出くわしたとき、どちらを採るのが正しいのか‥‥なんて論じるつもりはない。ただ、少なくとも、この曲で𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が選んだのはB。つまり彼女たちは、“私とキミ”で支え合って、この世界に生きることに決めたのである。これは、続くふたつめの歌詞についても同じだ。

普段我々が遭遇する出来事は、必ずしも重大なことばかりではない。むしろ、生活は、小さな幸せと不幸せの連続で成り立っているのだ。劇的な毎日なんてものは、空想の世界にしか存在しないのである。そして、これを踏まえて歌詞を見ると、この曲で𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が身を置くのも、我々となんら変わらない“些細な毎日”。つまり、彼女たちはここでも現実を生きているのだ


以上、本項では恋と愛の違いと『Love is a potion』の歌詞を検討してきた。小括すると、“愛という感情”もとい『Love is a potion』の世界観は、どちらも現実的であった。この共通点ゆえに、With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”における『LOVE=愛』と結論づけられるのである。

『【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】』より引用

【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】 - YouTube

ちなみに、これは余談だが、『Villans:impress』に収録された『Unfair Mirror』は、上の結論の説得力を逆説的に高めている。どういうことかというと、誰かを愛するとき、人は相手の良い部分も悪い部分も受け入れなくてはならなかった。これは、裏を返せば、“清濁併せ吞まないと、人は誰かを愛せない”ということでもある。では、この“誰か”のうち、我々にとって1番近しい存在は何者だろう?


恋人? 家族?‥‥残念ながら、どちらも外れだ。


種を明かすと、我々にとって最も身近な誰かとは、他ならぬ“自分自身”なのだ自分に対して出来ないことは、当然相手にも出来ない。ゆえに人は、“自分を受け入れなければ他人を愛せない”のだ。私が『Unfair Mirror』を引き合いに出した理由も、丁度ここにある。

本当の自分を見つめたら
初めてあなたを愛せるのかな

Unfair Mirror / harmoe


彼女(=女王)が見ているのは、鏡に映った自分。すなわち、ただの“虚像”でしかない。見たい部分だけを見て、それ以外からは目を背けているせいで、女王は“あなた”を愛せないのだ。


ということで、余談はここまで。
With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”のLOVEが“愛”と訳されるなら、手前の“i”は一人称の意味で読むのが自然だろう。ただし、これまでの文脈的にも、“i”が引用符で強調されていることからも、それが普通の“私”でないことは明らかだ。直前で述べたように、他人を愛するにはまず、自分自身を受け入れなければならない。だからこそ、ここでいう“私”とは、良いも悪いも引っくるめた“ありのままの私”。そして、長らく検討を重ねた一文の訳はこうなるのだ。


ありのままの自分と、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は愛を探しに行く

 

前項にて、私は以下のように述べた。すなわち、“『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、次なる物語への橋渡しをしていた”。物語の全容が“愛を探す旅”と分かった今ならば、長らく謎だった、目的を叶える手段が“善悪”や“現実”だった理由にも説明がつく。

まず、繰り返しになるが、愛とは現実的な感情で、誰かを愛するとき、人は相手の良い部分も悪い部分も受け入れなくてはならなかった。ところが、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖がこれまで築いてきたのは、もっぱら“作りもの”・“空想だけの世界”。彼女たちはむしろ、それ以外を排除さえしていた。それゆえに、愛を表現しようと思ったとき、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は新たに“現実”の概念を取り込まなければならなかったのだ。

4-7/n=7: The others
だからこそ。もともと正確な踊りを得意としていた岩田さんは、動きに“パッション”を取り込んだ。ミニアルバム『Villans:impress』には、観客が過去の記憶を連想するよう、曲ごとに“特定の役”が設定された。中村彼方さんは、ふたりに善悪を教えるため、2ndツアーのテーマを“図書館”に据えた。空想だけの世界から飛び出すため、セットリストの冒頭に『空想エスケープ』の名を持つ曲を入れた。

‥‥そして、それらの象徴として、『GOOD and EVIL』を冠するライブが行われた。つまり、これまでのすべては繋がっていたのだ


さて、以上が“『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、愛を探す旅への橋渡しだった”ことに対する説明のすべてだ。途中、話題が何度も移り変わり、時には混乱を招く箇所もあっただろう。それでも最後まで読み進めて下さった貴方が、少しでも有意義な知見を得られていたのなら、筆者としてこんなに嬉しいことはない。このまま良ければ、エピローグまでお付き合い頂けると幸いである。


 


‥‥ただし、話はこれで終わりではない。




2ndツアーと𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これから”が繋がっていたように、実は、『GOOD and EVIL』と1stツアー『This is harmoe world』の間にも、れっきとした繋がりがあるのだ。証拠となるのは、1stツアーの中核をなしたアルバム『its a small world』だ。

世界中を旅しながら、
その地の童話に出会い、影響され、
表現していくharmoeならではの物語を
アルバムで表現します!

『harmoe 1stアルバム「It’s a small world」きゃにめ盤』
https://canime.jp/product/SCCG000000101/

harmoe公式X(@harmoe_official)より引用

https://x.com/harmoe_official/status/1510483830309748741?s=20


紹介文にもあるように、このアルバムのコンセプトは世界旅行だった。収録曲『一寸先は光』『セピアの虹』の歌詞を引用すると、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が旅に出た理由は、“まだ見たことのない僕に会う”ため、ないし“自分に足りないものを探す”ため。つまり、この旅の目的は“自分探し”だったのだ。そして、これこそが、過去と未来を繋ぐ最後のピースに他ならないのである。今までの話はこうだった。

“誰かを愛するには、自分や他人の
ありのままを受け入れなければならない“。

他人と関わる時、相手は自分に、「揺るぎないその人らしさ」を求めてくる。この点において、人生は物語に等しいと言っていい。小説や物語の登場人物は、場面によって設定が変わってはいけない。なぜなら、設定が破綻したら読者を困惑させてしまうから。人生とて、それと同じなのだ。誰かと関わるにも、その時々で性格が変わる人とは接しづらいし、“自分らしさ”を持つ人には心も預けやすい。つまり、相手と深く関わるほど、誰かの人生の登場人物になるほど、自分を受け入れるという行為(=アイデンティティの形成)は必要不可欠なのだ。

ただ、愛の順序は“自分を受け入れること”が最初ではない。自分を受け入れるにはまず、そもそも受け入れる対象──“自分自身”を見つけ出さなくてはならないのだ。

図① 人が誰かを愛するまでに踏む過程
筆者作成

 

すなわち“自分探し”とは、他人を愛する上で最初に通らなければならない洗礼。だからこそ𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は、自分探しの世界旅行に出て、善悪の図書館へと招かれたのである。つまり、『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の過去と現在、そして未来を繋ぐための物語だったのだ。

──“Love is a fiction, but love is a reality!
──空想の恋と、現実の愛!

 

🍎Epilogue

ご挨拶が遅れました、ノットです。
まずは、ここまで読んで下さり誠にありがとうございました! いまエピローグを入力している時点で、総字数は17,000字。本当に長く書き過ぎたし、ライブから時間が空き過ぎちゃいました。この期に及んで感想とか、とっくに記憶は薄れてるだろうに‥‥我ながらちょっとどうかしてますね。まあいいや。

さて、このブログを書き始めた当時。最初の目標は、“皆さんに𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖を布教すること”でした。ルームメイトの諸兄はもちろん、差し出がましくも、本記事で𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖を初めて知った人が興味を持ってくれたら良いなと思ったのです。“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖”って面白いフォントでしょ? ルームメイトって、クラスメイトみたいでしょ? それぞれに海より深い理由があるのですが、、まあ、これもいいか。詳しくは公式サイトを見て下さい。

そんでもって。一言で布教といっても簡単なことではなく。そのために今回とった方法というのが、私の観た2ndツアー・すなわち“現実を巻き込んだ物語”を、読者である貴方に追体験させることでした。途中、何度かポエム読まされたでしょ? あれ、私の自作です。秋は人を詩人にしますね。

‥‥しますよね? するんですよ。

とまあ、とにかく、書き進めるほどに目的はどんどん増えていきました。それぞれの意図がちょっとでも伝わってたら、書き手冥利につきます。嬉しい。そして何より、当初の目標が達成されてたら、私としてはここまで書いてきて良かったと報われます。以下に、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”のセットリストを載せておくので、興味をもってくださった方は是非聴いてみてください。こちら、公式YouTubeチャンネルが作ってるものなので、どうかご安心くださいね。また、ユニットのオフィシャルファンクラブ『はるもえroom』のURLも貼っておきます。ファンクラブとだけあって会費はかかります(月額550円)が、魅力的なコンテンツが沢山供給されているので、併せて足を運んでみてください。加入して後悔はさせません‥‥なぜなら、万が一後悔させたら、そのときは私が会費を奢るからです。

 

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最後に、本記事を書く上で沢山の助言をくださったAさん・Pさん・Sさん・Yさん。主観と我儘だらけの相談に乗ってくださり、どうもありがとうございました! この場を借りてお礼申し上げます。

 


ノット