さかながしゃべる!

おあとがよろしいようで!

熱帯の虫みたいな女が嫌いだ。

だが、熱帯の虫みたいな女も僕を嫌いだ。
うんこにたかるハエから鼻つまみ者扱いされる僕は、要はうんこ未満ということである。懺悔の時間だ。

 

■熱帯の虫vsギャル

熱帯の虫は極彩色。どいつもこいつも毒でも持ってそうな出立ちだ。しかしながら、「熱帯の虫みたいな女」というのは、「目の毒みたいな派手系ギャル」とは別者である。見た目の問題では無いのだ。

…ならば何の問題だというのだろう。

その疑問はごもっとも。話を進める前に、まずは熱帯の虫の定義を見てみよう。

【定義】熱帯の虫
①見た目がヤバい
②暑さに強い
③暑さに弱い

終わった。1行で矛盾してしまった。
…などと決めつけるのは早計である。
たしかに一見支離滅裂だが、実は、暑さへの強さと弱さは両立し得るのだ。とんちではなく。現に京都大学大学院農学研究科教授・藤崎 憲治は、この「不可解な関係性」について次のように指摘している。

「温暖化は南方性の昆虫にとって有利である」とする“常識”は,(…)必ずしも当てはまらない(…)。熱帯のような低緯度地域に生息する変温動物,とりわけ昆虫類は温度適応の幅が狭く(…)気温の変動が小さく安定した環境に生息する彼らは,気温の変動に対して弱いのである
藤崎憲治「ミナミアオカメムシの高温障害」『植物防疫』第64巻第7号、2010年

補足しておくと、僕は「派手系ギャル」が嫌いではない。むしろ、椿りかで抜いてきたばかりだ。属性自体は好きとさえ言える(息子ともども、いつもご活躍を拝見しております)。

さて、藤崎の指摘は、要約すると「熱帯の虫は暑さそのものに強いのではなく、限られた高温域にのみ適応している」ということだ。暑ければ暑いほど良い訳ではない。あんな見た目をしておきながら、熱帯の虫は全然パリピではないのである。限られた高温域とギャップ、このふたつがミソだ。本題に入ろう。


■熱帯の虫みたいな女vs僕

突然だが、こんな女に見覚えはないだろうか。
すなわち「好きなタイプは面白い人・頭がいい人」等とのたまう輩である。
良い子そう! などと鵜呑みにしたら最後。彼女たちが相手を観察している・価値観マッチングな恋愛をしている…などと思ったら大間違いだ。彼女たちは、こちらの内面なんぞロクに見ていないのである。
例外もいるが、それはそれだ。これから話すのは、事実に基づく偏見である。

ときに、僕は元・放送作家だ。IQはなんと125もある。だが、「面白い・頭の良い人がタイプな女」と付き合った回数は0だ。交際はおろか、二度目のデートすら無い。僕のユーモアと知性は、彼女達のお眼鏡にかなったことがないのである。

IQって1000点満点なのだろうか。
作家って名乗れば誰でもなれるのだろうか。
否、そんな名前書けば受かる高校みたいなノリでは無かったはずである。ならば何故、一度もハマらなかったのか。

需要が無いからといえばそれまでだろう。ただ、こうもからっきしなのはなぜか。ここに、理由を示す象徴的な物語がある。音楽を聴ける環境なら、ここからはWANDSの名曲『世界が終わるまでは…』を流しながら読んでみてほしい。

出典:TVアニメ『SLAM DUNK』エンディング映像「世界が終わるまでは…」(WANDS)/東映アニメーション

【物語】頑張ることが好きな僕は…
僕、頑張ることが結構好きで。厳密には何事においてもベストを尽くすことが好きなんですよね。

…わかりますよ?
でも、意識が高い系か?ってツッコミ入れるのはちょっとだけ待ってほしくて。一応だけど、好きな理由もあるんです。

突然ですけど、シロアリってご存知ですか? 読んで字の如く、アリのクセに黒じゃなく白色してるヤツです。僕にとって努力って、シロアリなんですよ。

…はい。僕この話終わったら自首しますからね。

ここに一枚のコピー用紙があるとしましょう。その上にボールペンで、何でも構わない、何か線を引くとします。そして、書いた線の上に、シロアリを乗せるんです。するとコイツ、線をなぞるようにして、紙の上をトコトコ歩いてくんですよ。
ヤバいっすよね。

これ、何が起きてるかというと、ボールペンのインクって、お尻から分泌されるフェロモンと似てるらしくて。僕じゃなくてシロアリのね。
身も蓋もない言い方すると、シロアリは、筆跡を道標か何かと勘違いして追いかけてるんですよ。

肝心なのは、「予め引かれた軌道を追う」ってことで。これ、見る側は勿論、追う側になっても面白かったりするんですよね。
いつかこうなりたいっていう目標を据えて、そこに至る導線を引いて…。導線を引いては、その上をなぞっていく。引いてはなぞる・引いてはなぞるの繰り返しです。これ、思った通りに進んでくと超気持ちいいんですよ。「ゴールが見えてきた!もう一踏ん張り!」って頑張れますし。一方で、そうじゃなくてもそれはそれで楽しくて。「ホントに大丈夫なのかよ?」とか「やっぱり無謀だったじゃないか!自分のばか!」とか、過去の自分に悪態つくのも意外と悪くないんですよね。

努力が実った瞬間の喜びは何にも代え難い…それはそうです。でも、個人的には追いかけてる間・道中にも楽しさは無限に転がっていると思ってて。だから、ベストを尽くして結果どうなった…とかじゃなくて、僕は頑張ること・ベストを尽くすこと自体が好きなんですよ。努力とシロアリってそういうことなんです。思いのほか軟着陸って感じしますかね?

ちなみに、シロアリって本当は、アリじゃなくてゴキブリの仲間らしいんですけど。
参考:島津製作所 広報誌『ぶーめらん』Vol.23「虫博士の超実践教育論」
株式会社島津製作所
https://www.shimadzu.co.jp/boomerang/23/06.html
(2026年9月20日閲覧)


……しかし、このおもしろエピソードがウケることはなかった。
というより、実際は長過ぎてお蔵入りしたものである。女性経験に乏しいとはいえ、これを初対面の人相手に披露はしない。天才ですから。

だが、披露の機会こそ無かったものの、これは僕の思うユーモアや知性が凝縮されたエピソードである。
一見、無関係な単語を結びつけるとか、ひとつの言葉に複数の文脈を持たせるとか、オチで台無しにするだとか…いずれも僕が好んで用いる手法たちだ。これらの手法はいずれも、時間をかけて・噛めば噛むほど面白いネタを捻出するためのものである。そして、手法を使いこなすために僕は、いつでもユーモアと知性を総動員しているつもりだ。思うに、ユーモアや知性はただ見せびらかすのではなく活用してこそ意味がある。これらは人知れず燃え続ける燃料なのだ。

ところが、「面白い人・頭の良い人が好きな女」と来たらどうだろう。一瞥するなり、僕を考えなしだとかオカシイ人呼ばわりする奴ばかりだ。
僕は何も、「笑え」とか「メロつけ」と言いたい訳ではないのである。スベっても良いし、僕以上のインテリに論破されても構わないのだ。問題はむしろ、彼女達がそういうユーモア・知性など存在しないと最初から決めつけていることなのである。

彼女たちの言う「面白い人・頭の良い人」には、自分が理解できる範囲で…という接頭語が付く。残念なことに、彼女たちは自分の理解を超えたものを理解しようとはしない(反省すること自体、コスパもタイパも悪いので、時代錯誤な行為と言えなくもないが)。
裏を返せば、ユーモアも知性もアクセサリー感覚だからこそ、彼女たちは、パターン化されたエモならぬ「パターン化されたユーモア」「パターン化された知性」に集まってゆく。きっと、手っ取り早く自分を着飾り・気持ちよくなりたいのだ。
彼女たちにとっては、いま表に出ている物こそすべてで、時間をかけるとか、噛めば噛むほど…なんて片腹痛いことなのだろう。そこに無ければ無いって、100均の店員さんかな?

彼女たちは、普通を拒み・特別を求めている。だが、受け入れられるのはあくまで「自身が理解できる、ごく限られた変人」だけだ。虫たちが気温の変化に耐えられないように、彼女たちにとって基準外のユーモアや知性は、価値のないものとして打ち捨てられてしまうのである。
そして、この「特別を好むと言いながら、実際には狭い範囲の特別にしか適応できない性質」をもって、彼女たちは「熱帯の虫みたいな女」だといえるのだ。

…ここまで書いて、彼女たちと接するとき、僕も態度や表情に出てたかもしれないと思ってしまった。


僕は熱帯の虫みたいな女が嫌いだ。
だが、熱帯の虫みたいな女も僕を嫌いだ。

第一回!チキチキ!𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖に合うイヤホン選手権!

もくじ

趣旨

𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の新譜『twice upon a time』が刺さりすぎた私は、アルバムをより良い音で聴きたいと思った。

twice upon a time

twice upon a time

  • harmoe
  • アニメ
  • ¥2444

 

概要

利便性よりも音質を優先し、有線イヤホンを中心に試聴(※)。
個人的なオススメを部門別に3つ紹介していく。
ひと通り紹介したのち、「私にとって、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖を聴くのに良い音」とは何か?にも触れていく。
※有線・ワイヤレスにかかわらず、ヘッドホンは選外。この時期は特に、パットが汗で蒸れ、使い物にならないため。

 

試聴した楽曲/選曲理由

①passport / 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖
>高音が特に印象的だから
②ブルーミング・ストーリー / 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖
>新譜で一番ハマった曲だから
③待ち人 / ゆらゆら帝国
>スネアドラムの鋭く乾いた音色が特徴的だから(𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖無関係でごめんね!!)

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コスパ部門:Ne Bula /Juzear

◎ おすすめポイント

迷ったらコレ。 2万ちょいで買える価格破壊イヤホン。製品名は「ネブラ」と読む(はず)。
特徴は、各音域の聴こえ方がクリア&偏りも無いバランス型。低音がドゥンドゥン騒がしくて中高音が聴きづらいない…なんてことが無い。
個人的なお気に入りポイントは、“芯を食った音”を出力してくれる点。これがgood ◎。

私が試聴した範囲では、いわゆる“良いイヤホン”ほど高音が薄く聴こえる傾向があった。最たる高音の「裏声」が力まない歌唱法だから、野太くならないような音作りをされやすいのかもしれない。
ただ、私は、岩田さん・小泉さんの歌声といえば“高音の力強さ”が魅力と思っている。故に、抜けていくような感じよりは、迫力を感じられる音作りの方が好みなのである。
その意味でネブラは、ふたりの「強さ」を感じるにはかなり適任。総じて、同価格帯ではNo.1。
何なら、下手な5万円台のイヤホンよりも好みな音だ。繰り返しになるが、迷ったらコレを選んでおけば間違いない。

△ 好みが分かれそうなところ

良くも悪くも、余韻が感じられる作り。スナップ感よりも、ややウォーム感に寄ってる印象。
たとえば、スネアドラムみたいな乾いた鋭い音について、若干モヤがかかったような違和感を感じる。ホースではなく霧吹きで水を浴びてるようなイメージだ。
これはもう完全に好みの問題だが、個人的にはもう少し引き締まった音でも良いかなと思う。逆にいうと、それくらいしかケチの付け所がないのは凄い。破格の性能してると思う。

 


音質部門:Performer 8S/AFUL

◎ おすすめポイント

音だけで言えば、個人的にはほぼ満点。値段は約6万。高い。でも、高いだけのことはある。
第一印象は、「凄く楽しい音作り」。特に良かったのは低音で、出しゃばっていないのに存在感は十分。ボーカルを妨げることなく、曲全体をノリ良く聴かせるアクセントとして機能している。聴いていて、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖ってダンスミュージック・EDM系のユニットだったな…というのを思い出させてくれた。
ボーカルについても素晴らしい。ネブラで触れた「力強さ」はこちらも健在。ふたりの歌声を質量たっぷりに・艶やかに鳴らしてくれる。総じて、聴き比べをしていて一番ワクワクしたのがコレ。

「もっと聴きたい!」

と思わせてくれること請け合いである。
新譜のタイトル『twice upon a time』よろしく、お気に入りの楽曲たちと“二度目の出逢い”をしてみてはいかがだろうか?

△ 好みが分かれそうなところ

評価を下げる程ではないが、高音にもう少し伸びがあっても良いかも。聴いていて、わずかに“高音が天井にぶつかりそうな感覚”を覚えた。とはいえ、そこに無機質さや頭打ち感は無く、個人的にはぜんぜん許容範囲内。
“ぶつかりそうな感覚”について補足するなら、高音が“まるで浅瀬の中から水面を見上げるよう”。柔らかに浮上していくイメージだ。

一方で、ものすごく残念なのが“イヤホン自体の作りがチープ”なこと。このイヤホン、「ベント孔」と呼ばれる穴を開閉することで音の傾向が変わるらしいのだが、この開け閉めが、まさかのシールで行う仕様。6万払ってシールって!

(これ、音読カードに先生が貼ってくれたやつじゃねえのか?)

音は本当に最高なのに、“安っぽさ”の一点だけで購買欲を損ねてしまうのは勿体ない。

……まあ、耳にはめれば一緒なんだけどね。

 


ワイヤレス部門:Pi8/Bowers & Wilkins

◎ おすすめポイント

ワイヤレスからもチョイス。値段はこちらも6万円弱(さほど驚かなくなってきたあなたには、オーディオ沼にハマる素質があります。ようこそ)。
本製品の魅力は、なんといっても圧倒的な生音感(※)だ。ドラムスティックの力加減や楽器隊の配置、ボーカルとの距離感…。音が耳に触れるだけで、こういった本来知り得ない情景までもが手に取るように分かるのである。
発売から約2年が経過している本製品だが、実力は未だに最高峰。𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖といえば、ダンスポップやエレクトロ・ポップが主体のユニット。それでも、一度Pi8を聴けば、まるで耳の中がスタジオになったかのような革新的体験が出来ることだろう。

△ 好みが分かれそうなところ

不満というより懸念点として、そろそろ後継機が出そうな気がする。
Pi8の発売元である『Bowers & Wilkins』は、イヤホンと並行して、『Px』シリーズというワイヤレスヘッドホンを発売している。そして、この『Px』シリーズ、実は昨年9月に最新機種『Px8 S2』が発売されたばかりなのだ。マイナーチェンジと侮ることなかれ、両者の音質の差は歴然。前作『Px8』と比べて『Px8 S2』は、音源と聴き手を隔てる膜が取り除かれたような、文字通り一皮剥けたような印象を受けた。
問題は、これまでの傾向を見る限り、ヘッドホンの改善を踏まえた新作イヤホンが発売される可能性がかなり高いということ。そのため、値段度外視で構わない&待つことが苦にならないなら、新作発表を待った方が良いかもしれない。

……ただし、一度聴くと確実に戻れなくなるので、それだけは要注意(調教された私がいうのだから間違いない)。

 

※余談:生音感とは?

生音感について、実は、厳密な定義は存在しない。有識者の間でさえ、各々なりの使い方をされているのが実情。そこで本稿では、この生音感を「現実世界で演奏を聴いたときのような感覚」と定めた。
例えば、大規模なライブに参加すると、音が遅れて聴こえたり、やけに反響したりする。これは極端な例だが、そういった空気感や距離感まで含めて演出してくれる製品こそ、ここでいう“生音感”に秀でたイヤホンに該当するのである。なお、似て非なる概念として“原音に忠実な音”というものがある。これは空気の振動や聞き手との距離感などの不確定要素を取り除いた、輪郭が明瞭な音。私はこれを『モニターサウンド』と認識している。

 

 

まとめ

私の思う“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖に合う音”は以下の通りだ。

① 各音域がバランス良くまとまっている
低音が強すぎて高音が潰れる…等はNG。
ただし、調和が取れているなら、主張があっても構わない。
②歌声の表現は、力強さ・艶感を重視
特に、高音については細く薄れるより芯の通った音作りがされているとgood。
③余韻は、多すぎず少なすぎず
無いよりはあった方が良い。ただし大事なのはメリハリで、スネアドラムなどの“もともと鋭い音”は変にボカさず鋭いまま鳴らして欲しい。

ここまで読んで「自分もそういう音が好きだ」と感じたなら、ぜひ上記のイヤホンを聴いてみて欲しい。きっとお気に入りが見つかるはずだ(少なくとも、大きく外すことは無いと思う)。

一方で、今回選んだのは、あくまで私が思う𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の魅力を表現してくれるイヤホンに過ぎない。私はふたりの“力強さ”を重視したが、“繊細さ”に惹かれる人もいるだろう。他にも、“余韻”や“曲と歌声の調和”…等々、聴く人によって“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の魅力”は無限に存在している。良いイヤホンとは、この魅力を際立たせてこそ。ゆえに“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖に合うイヤホン”は一つではないのである。

「自分は𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のどこに惹かれているのか?」

答えを探す第一歩は、そんな自問自答から始まるのかもしれない。良いオーディオライフを!

 

さかな🐟

『twice upon a time』発売を機に𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖ちゃん久しぶりに聴いたら凄すぎて衝動で3000字書き殴っちゃった

 

●◆ 豪胆かつ繊細。かつてないカタルシス。

久しぶりに𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖を聴いた。
『トゥインクル・デイズ』
『旅しよ! don't you?』
辺りで止まってたので、具体的には約1年半ぶり。

 

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──なぜ今になって?

それは、たまたまとしか言いようがない。

とはいえ。せっかくならと、半ば聞き流していた前作『iki』と新譜『twice upon a time』を通しで聴いてみた。

>iki▶️twice upon a time

 


● 感想:iki

第一印象として、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖というユニットが、いかに繊細で微妙なバランスで成り立っているか?を感じた。名盤であることは間違いないが、私とは少し重心が違うというべきか。

このミニアルバム。実を言うと、私はリリース当時も聴いてはいた。
聴いてはいたが、いまいちハマりきれず…かといってSNSで「お気持ち表明」をしようとも思わず…私は𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖から静かに距離を置いていた。

当時の私生活はバタバタ。ピンと来なかった理由も「感性が枯れて、好きなものを楽しめなくなったからだろう」などと思っていた。
だが、改めて聴いてみて、そうではないと分かった。

ここからは、あくまで個人的な感想として述べるが、
この『iki』、私は若干コンセプト偏重な作品であるように感じた。まず「四季を表現したい」という目的があって、次に、目的を満たす楽曲を制作する。楽器や歌声など、諸々の音色は四季を表すための「手段」である。そんな印象だ(特に、最初と最後で、曲調が一貫していたからだろうか?)。

やりたいことは想像出来る。
声色ともマッチしてる。各々良い曲だとも思う。
ただ、同時に、コンセプトありきで作られてて、演者がやや「主役」になりきれてないかも…とも思う。

私にとって𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は「岩田陽葵さん・小泉萌香さんの表現力を浴びるための舞台」のようなものだ。何よりも演者のふたりありき。その意味で、改めて聴いて尚、本作は「こういうアプローチもあるんだなあ」という控えめな感想に留まってしまった(※)。


「卵が先か?鶏が先か?」ではないが。
世界観がガチガチに作り込まれてるユニットというのは、舵取りに兎角繊細なバランスを要するのだなあと感じる。
確かに、世界観は演者を際立たせるためにある。
だが、演者もまた、世界観を際立たせるために歌い踊り・表現する。

──受け手がどちらに比重を置くか?

それは、人それぞれ。

ただし、少なくともどちらも無くてはならないものだし、両者に明確な優劣など存在しない。
だからこそ、どちらにどれだけ注力するか?優先するか? の調整が必要になるのだろう。

私には私の「𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖らしさ」があるように、聞き手の数だけ「らしさ」はある。最大公約数を出力し続ける大変さは…想像を絶する。

※忙しさにかまけて、私の許容範囲が狭まってるのは間違いないのだけれど。

 


◆ 感想:twice upon a time

真っ先に感じたのは、「主役」が演者だということ。
音楽素人には、世界観を控えてるのか?とかは分からない。ただ、少なくとも私は、ふたりの表現力に度肝を抜かれた。たまたまメロディが付いてて、音取りも上手いけど…ふたりがやってることは舞台と同じ。ただただ、ひたすらに「表現」。すごいや。

第一印象がこんなだったので、私はかなり好意的に本作を聴き進める。そうすると、歌詞や曲調など、先ほどは忌避した「世界観」の部分にも意識が向いてくるものだ。で、結論から言うと、これもまた最高だった。

特にお気に入りなのは、『Tilt』と『ブルーミング・ストーリー』。多分、一度離れた私だからこそ“刺さった”のだと思う。

『Tilt』の歌詞の中には、『ここでまた僕らが会えたこと ふたりたまに思い出そうよ』という一節がある。私にとっては、これがとにかく救いなのだ。

正直な話、私は今後、以前ほどの熱量でオタ活を出来る自信がない。
私がオタクを始めたのは大学時代。TVアニメ「ラブライブ!」と出逢ったのがキッカケだ。
人生で一番時間と体力が有り余ってた時期に、それらすべてをラブライブ!に捧げた。そして、幸か不幸か、これが「基準」になってしまったのだ。
以前ほどの熱量なんて出せるわけがない。にもかかわらず、心の中では物足りなさ・もどかしさを感じてしまう。余裕が無くなると「中途半端になるくらいなら、いっそ距離を置こう」などと極端な思考に走ってしまうのである。

そんなわけで、社会人になってからというもの、私のオタ活は途切れ途切れ。追い続けられないと、美味しいとこだけ摘み食いしてるみたい。ときどき気が引ける事もある。ここまで書けば明らかだろう。先の一節『ここでまた僕らが会えたこと ふたりたまに思い出そうよ』は、「そんなでも良いんじゃない?」という自己肯定の言葉なのだ。
もっというと…今の自分を認めてもらえた喜びだけでなく、“当時、今以上に大好きだった𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖を、今なお素晴らしいと思えること”は、私という人間が、過去から今まで途切れず繋がっていることを実感させてくれる。「自分の感性は枯れてしまったのか?」「一度衰えたら最後、もう戻らないのか?」などとクヨクヨするような人間にとって、自己連続性の実感は、前者に負けず劣らずの“自己肯定”なのである。


かたや『ブルーミング・ストーリー』。
これは、先程とは打って変わって強烈な快感・カタルシスを感じる一曲。
歌詞やメロディ・フレーズなど、この曲には、歴代楽曲のモチーフが至る所に散りばめられている。気づいていないものも含め、聴けば聴くほど、仕掛けを見つけられるのだろう。

ときに、小ネタが豊富な作品というのは、ともすれば「ネタを仕込むことが目的」となりがちだ。小さくまとまってるというか、伏線回収が面白さに繋がってないというか。細部にこだわりすぎて、そもそもの根本がイマイチ…みたいな失敗は、私自身、文章を書いててもやりがちである。
だが、『ブルーミング・ストーリー』はどうか。
(主観的だけど)曲自体、めちゃめちゃ良いのだ。𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のこれまでを思い出しつつ、未来を見据える歌詞は、アルバムの締めくくりに相応しい。仕掛けは極めて自然に溶け込んでいて、曲の質を全く損ねていない。一方で、それぞれの小ネタは、気付きさえすれば実にあからさま。良い意味で露骨で、隠す気が全くない。

叙述トリック系のミステリーを読み進めると、「こんな堂々と書いてたのに、どうして気づかなかったんだ!」「やられた!」と、伏線の巧妙さに唸らされることがある。『ブルーミング・ストーリー』は、喩えるならまさに、この叙述トリック系のミステリー。曲自体が素晴らしく、無数の仕掛けも、それを探す楽しさに繋がっている。何という大胆さと繊細さ。この曲は、名曲であると同時に名著なのである。

 


●◆ まとめ

『Tilt』と『ブルーミング・ストーリー』。
これらは共に、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が“活動5周年という節目を迎える”という文脈を最大限に活かした楽曲だ。また、アルバムを通してみても、「世界観」と「演者」。仕掛けの「大胆さ」と「繊細さ」…。など、さまざまな要素が、かつてないバランスで両立した傑作であるといえる。もう、ものすごく良かった。

二度目の「昔々」。

二度目の「出逢い」。

しばらくは、この高鳴りに身を委ねてみようと思う。

 

そして、願わくば…一度𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖を離れてしまった人がいるなら、そういう人にこそ、このアルバムは聴いてほしいな。

 

さかな🐟

今こそ王妃の帰還を再演してほしい

ご挨拶

突然ですが、『王妃の帰還』という作品はご存知でしょうか?
『王妃の帰還』とは、2022年3月20日(日)〜27日(日)に上演されていた、我らが岩田陽葵(@haruki_iwata)さん主演の舞台です。様々な意味で“特別”なこの舞台は、岩田さんにとっては初主演作。初めて繋がりだと、後に『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -The MUSICAL- 別れの戦記』の音楽を手掛けたはるきねる(@haruki_neru)先生のデビュー作。そして、私にとっては“人生のターニングポイント”と言うべき作品でもあります。私が岩田陽葵さんの沼にハマったのは、間違いなくこの作品がキッカケでした(同じ気持ちの人も居るんじゃないかな?)。

はるきねる先生が携わっていることもあり、『別れの戦記』の公演期間中、SNS上では『王妃の帰還』の感想もチラホラ投稿されていましたね。上記の事情があるとはいえ、千秋楽から2年が経っているにもかかわらず語られるなんて凄いですね。改めて、素敵な作品だなと思います。

とはいえ、ファンが必ずしも“ただ懐かしくて語っていた”のかというと、そんなことはありません。それどころか、理由は真逆と言っていいでしょう。彼等は渇望しているのです。何を? それは、『王妃の帰還』の再演。あるいは映像化を、です。残念ながら、2024年11月30日現在において、『王妃の帰還』を視聴する手段は存在しません。ファンの間では未だに語り草となっている作品でありながら、それを実際に見ることは叶わない。薄れゆく記憶を辿りに語らうしか出来ないのです。寂しい。

そんな訳で、彼らの声には並々ならぬ願いもとい渇望が込められています。かくいう私も、あの作品をなんとかして見られないか…と思い、筆を取った次第です。

※当記事は、読み手が舞台『王妃の帰還』についてある程度の知識を持っている前提で執筆されています。作品のことは全く知らない! という方が居られましたら、過去に登場人物・あらすじをまとめた感想ブログも上げているので、併せて覗いてみてください。


色褪せない!名シーンランキング

繰り返しになりますが、当記事の目的は、舞台『王妃の帰還』の再演or映像化の実現です。そこで本節では、私が思う『王妃の帰還』の名シーンをランキング形式で紹介しようと思います。もし、これを読んで主旨に賛同下さった方・作品に興味を抱いて下さった方は是非、SNSに#王妃の帰還 を付けて感想を呟いてください。

3位 ラインを超えよう
ここで言う“ライン”とは、スクールカーストの線引きのこと。舞台の中盤、クラスの階級社会に疑問を抱いたノリスケは、同じくスクールカーストに懐疑的なゴス軍団のボス、黒崎さんに声を掛けます。そして、彼女に手を差し伸べ、自分と貴女は同じなのだとやさしく微笑みかけるのです。相手の“立場”でしか人を見られなかったノリスケが、その人自身に眼差しを向ける…。その意味において、ここは本作の転換点に当たる場面と言えるでしょう。
また、忘れてはいけないのが同場面で歌われる楽曲『ラインを超えよう』。この曲の歌い出しは、ノリスケ&黒崎さんのデュエットから始まります。最初は素朴な歌声ですが、2人に絆されるかのようにクラスメイトが続々と加勢し、最終的にはメンバー全員の大合唱に発展してゆきます。壮大さを増す曲調と併せて、鳥肌が止まらなくなること請け合いです。

2位 Diamant -ディアマン-
舞台の冒頭、訳あってスクールカーストの最上位から転落した“姫”は、成り行きでノリスケの家を訪れることになります。それを受けて、彼女に密かな憧れを抱いていたノリスケはもう大はしゃぎ。お手製のクッキー『ディアマン』に紅茶まで用意して、“姫”来訪の瞬間を待つのでした。
この場面を挙げた理由は、ノリスケ演じる岩田さんがとにかく可愛すぎるから。ステージの端から端まで駆け回って、飛んで跳ねて、歌って。あの瞬間の岩田さんはまさに可愛いの権化と化しています。以下にゲネプロのダイジェスト映像を載せとくので取り敢えず見てみてください(該当シーンは01:19から)。

 

1位 Ma petite princesse
『王妃の帰還』というタイトルの、本当の意味が明らかになる瞬間。それがエンディングです。これまでは、“王妃の帰還=スクールカーストの頂きから転落した姫が玉座に返り咲くこと”として描かれていました。ですが、最後の最後、“姫”こと美姫には、玉座とは別に帰る場所があることが明かされます。
「ねえ美姫!こっち来なよ!」というノリスケの叫びに、とびきりワガママで可愛い“大切な友達”は応えるのか? …こればっかりは、実際に見て確認して欲しいとしか言えません(見れないんだけどね)。や、何から何までマジで良いんだよ、マジで。

 

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推しの青春を追体験している

冒頭で述べた通り、私は『王妃の帰還』がキッカケで岩田陽葵さんにハマった人間です。これは、裏を返せば、“観劇当時は彼女のことを何も知らなかった”ということでもあります。
あれから2年が経過し、岩田さんの人柄に触れた今。改めて思うのは“ノリスケ役は岩田陽葵さん以外にあり得ない”ということ。そう断言できるくらい、岩田さんにとってノリスケはハマり役だったように思います。極論、ノリスケは岩田さんの生き写しなのです。生き写しとは大きく出たな?! …ということで、ここではそれぞれの性格・印象、そして両者の共通点を見ていきましょう。

●ノリスケはどんな人物か?
ノリスケは、“現実にはこんな子いない”という意味で“いかにも創作然としたキャラ”と言えます。

特徴① 誰かのために動ける人。
普段は“周りから浮かない立ち回り”を心掛けているノリスケ。ですが彼女は、自分の親友が貶められたときには、なりふり構わず黒幕に立ち向かえる行動力を秘めています。上の者に歯向えば当然タダでは済みませんから、これは普段の言動とは真逆の行為と言えます。けれども彼女は誰かのためなら自分の行動理念すらも捻じ曲げてしまう。つまり、ノリスケは強い自己犠牲の精神を持っている女の子なのです。

特徴② 単純。
劇中では、ノリスケが年齢の割に幼いことが度々描写されています。例えば、いつも一緒にいる親友の恋心に気付かなかったり、憧れの姫と打ち解けて舞い上がってしまったり。また、(若干メタ的な見方をすると)彼女は舞台の狂言回しをつとめており、モノローグで都度都度状況説明や心情を吐露してくれます。そのため、他のキャラ以上に考えてることがめちゃめちゃわかりやすいのです。

●岩田さんはどんな人物か?
岩田陽葵さんは、“こんな優しい人滅多に居ない”という意味で、ノリスケ同様まるで創作から飛び出してきたような人です。

特徴① 誰かのために動ける人。
岩田さんはいつも周りに目を向けています。harmoeの活動ひとつ取ってもそう。例えばライブを振り返る際、岩田さんは照明や音響・衣装さんなど、必ず“自分以外の誰か”の凄さを話してくれますよね。それこそ「◯◯って本当に凄いんだよ!」と嬉々とした笑顔で。本人だって物凄い努力家なハズなのに、自分を褒めて欲しい素振りなんてちっとも見せない。ただただ誰かのために、誰かの頑張りが日の目を見るように振る舞うのです。
直近の例で言えば、自分が主役のバースデーイベントで“ファンにお返しをするため”弾き語りに挑戦するようなお人ですから、利他的な性格は根っからなのでしょう。

②(ある意味)単純。
何も、岩田さんを幼いと言うつもりはありません(※)。むしろ、ここで強調したいのは彼女の表情のあらわれ方です。
岩田さんって、感情表現がめちゃめちゃ豊かですよね。コロコロ変わる表情を見ているだけで、こっちまで幸せになってしまいます。更に素敵なのは、岩田さんの表情には嘘が無いということ。内に秘めた想いを── 笑顔の時には嬉しさを・俯き顔のときにはアンニュイを 、100%の変換率で出力しているんです。これはファンの驕りかもしれませんが、岩田さんは思ってることがそのまま顔に出るから、お顔を見れば彼女の気持ちって大体分かっちゃうんですよね。そういう意味では、岩田さんは単純と言えなくもない…と思います。

※確かにお肌はとぅるとぅるだし、『ばぶ』と呼ばれることも多いけどね。

 

さて、ここまでふたりの性格もとい共通点を見てきました。①誰かのために動けること ②単純であること。このふたつこそ、両者を結ぶ共通点と言えるでしょう。さらに、私は、以上の条件を満たすには、当人の中に次の素質が求められると思っています。すなわち、その人が限りなく純粋であることです。

例えば、先ほどの“岩田さんは感情表現が豊か”という話。思ったことがそのまま顔に出る岩田さんは、周りにどう見られるかをほとんど気にしていません。要は、自分と関わってくれる他人を心から信用してるのです。感情を表に出すまでに余計なノイズを挟まないという意味で、岩田さんは(危うささえ感じるほど)純粋な人物といえます。例えるなら、泥沼に咲く蓮のようですね。

一方のノリスケもそうです。“他人からどう見られるかを気にしている”という点において、確かに彼女の“純粋さ”は岩田さんのソレとは性質を異にするでしょう。ですが、彼女にとっては学校が、友人だけが世界のすべて。友人が貶められることは、世界が侵されることと同義でした。だからこそノリスケは、自分の世界を守るため奮闘してきたのです。彼女の行動原理は極めて素直で混じり気がありません。故に、岩田さん同様ノリスケも純粋な人物と言えます。


舞台の観劇中、私はノリスケを同一視せずにはいられませんでした。当時は理由が分かりませんでしたが、今ではそれが“岩田さんとノリスケは性格の根っこの部分が繋がっているから”だと確信出来ます。例えば岩田さんがノリスケなら、チヨジのためエリナに立ち向かったでしょう。逆にノリスケが岩田さんなら、ひとたび舞台に上がれば幕が降りる瞬間まで満面の笑顔を貫くでしょう。自分が自分でいるために。

そして、この確信があるからこそ『王妃の帰還』は“岩田陽葵さんの青春時代の追体験”といえるのです。舞台の再演、貴方も実現して欲しいと思いませんか?

 

P.S.

今回、実はぷるお(@ple_starlight)さま主催の『harmoe Advent calendar』というステキ企画に参加させていただきました。こちら、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖ちゃんに関することなら何でもいいから、来る12/25のアコスタライブに向けて盛り上がっていこう!というもの。何かしたいな〜と言う方はまだ空き枠あるみたいなのでぜひ参加してみてくださいね! では、明日は鈴木ピク(@pumpkin_crack)さまです!

 

 

 

【解説】オタクは普段どうやってブログを書いているのか?

もくじ

 

1. はじめに

確かに、感動を分かち合うのは素晴らしい。
ですが、それは容易ではありません。
口伝にせよ文章にせよ──あるいはそれ以外の方法にせよ、創作には『産みの苦しみ』が付きものだからです。ひょっとしたら、これを読んでくれているアナタにも、以下のような経験があるのではないでしょうか。すなわち…。


(どこから始めたら良いか分からない…)

(書いてはみたけど完成させられなかった)

(出来栄えに満足いかなかった)


本記事の目的は、これらの行き詰まりを解消する選択肢を示すこと。読者たるアナタが、「こんなやり方もあるんだ!」という気付きを得られることにあります。少し長くなりますが、良ければどうぞお付き合いください(本文で使う専門用語の意味はこちら)。

 

 

 

2. ブログってどこから手をつけたら良いの?

2-1 エモいだけが感動的な文章ではない!

「自分のブログで、人の心を動かしたい!」
これは、ブロガー誰しもが抱く承認欲求です。
ブログを上げるには手間が掛かります。承認欲求と書くといやらしさを感じるかもしれませんが、せっかく苦労して書くのだから、多かれ少なかれ欲が沸くのは当然なのです。読者の心を動かす・感動させる…確かに、そんな記事を書けたら書き手冥利に尽きるでしょう。しかしながら、そもそも感動的な文章って何でしょうか?


(エモい文?)

(パッションの赴くまま綴られた文?)


そう考えたアナタ、100点。どちらも大正解!
エモで読者を殴れたら、どんなに気持ち良いことだろう。想像するだけでワクワクしますね。実際、これらの文を書けるなら何も言うことは無いのです。すぐにでもノートを開き、青き初期衝動に身を委ねてみてください。

 

繰り返しになりますが、エモが人の心を動かすことは間違いありません。『エモい文』が先の問いへの答えになるのも明らかでしょう。ただし、これはあくまで十分条件。書けるに越したことはないけど、別に必須ではないんです。現に、本記事において提案するのは『エモい文章の書き方』ではありません。ここではむしろ、『感情的な要素を排した・それでいて感動的な文章の書き方』を紹介するつもりです。


(感情が乗ってない文章で人の心は動くの?)

(矛盾してないか?)


そんな疑問を持たれたかもしれません。ですがご安心ください。
結論から言うと、本記事の目標はカタルシスを得られる文章が書けるようになること。カタルシスとは、謎が解ける『快感』を意味します。すなわち『快感』で心を動かそうというわけです。そして、そのために必要なのはただひとつ──伝えたいことを、最も伝わる場所に置く。それだけです。

 

2-2 本文を書く前の『下ごしらえ』

いよいよ本題。ここからはブログの書き方について話していきます。ブログを公開するまでに、私は以下の行程を踏みます。

 

ブログ完成の行程
① 一番伝えたい本題を考える
② 要素を書き出し、構成を練る
③ 本文を書く
④ 行き詰まったら行程②に戻る
⑤ 完成!



「えっ、本文を書くだけじゃないの?」
と思われる方もいるでしょう。順番に説明しますね。
最初にやっているのは、伝えたいこと(=本題)をハッキリさせるということ。というのも、この『本題の明確さ』はモチベーションの維持に直結するからです。例を挙げましょう。

 

突然ですが、アナタはこんな経験をしたことがありませんか? つまり、知らない場所を訪れるとき、行きと帰りで体感時間が違う…。
察するに、この現象が起きる理由は、前者は手探りで目的地を探す一方、後者は一度通った道を歩くから。目的地を知っている安心感があるために、行きと帰りでは帰りの方が時間の流れが早く感じるのです。

 

▲ 目的地が分からないと、最悪その場から動けないことも

 

ここで大事なのは、ゴールを把握していると気持ちが楽になるということ。何故なら、ブログにおいても全く同じことが言えるからです。

 

ブログを書いてみたいアナタは、既に本題をお持ちかと思います。◯◯を書きたい・伝えたい…。 確かに、これらの原動力はアナタを前に突き動かすでしょう。ですが、原動力とは燃料。使えば減るし、あまつさえ書けずに停滞しているときにも消耗してしまいます。先の例えを引き合いに出すと、『迷子』ってめちゃめちゃメンタル擦り減りますよね。それと同様で、本題が揺らいだら、モチベはあっという間に尽きてしまうのです。私がいきなり本文に手をつけることを勧めない理由もここにあります。『最初に本文を書く』行為は言わば見切り発車。結末まで見切れていたら良いのですが…そうでないと、行き詰まったときにたちまちエンストしてしまうのです。

 

こういった『燃料切れ』を防ぐためにも、これをこう伝えたい!という着地点は出来る限り具体的に決めなくてはなりません。なお、このときのコツは2点あります。ひとつは『内容を1つに絞る』。もうひとつは『その1つを徹底的に深堀する』。これです。

 

原則的に、ブログを書くときは、取っ替え引っ替え色んな話題に触れるよりも一つをうんと深掘りした方がベター。何故なら、話題が幾つもあったとして、全てを同じ熱量で書き切ることは不可能だからです。

 

例えば、ライブに関するブログを書くとき、全曲の感想を満遍なく書くなんてのは無謀。というのも、自分が楽しみにしていた『推し曲』と『それ以外』では、筆の乗り方にも違いが出ますよね? このとき、自分にとっての『それ以外』が読者にとっての『推し曲』だったら? それこそ、書き手と読み手の間で熱量のギャップが生じてしまうのです。もしも、

 

(あっ、コイツ手抜いてるな)

 

などと思われてしまったら一貫の終わり。最早続きを読んでは貰えないでしょう。自分のモチベーションを維持するため・読者の気持ちに寄り添うためにも、『広く浅く』より『狭く深く』を心掛けるようにしましょう(どうしても書きたいことが複数あるなら、個別でブログを上げるという手もあります)。また、深堀をする際には、「なぜ〇〇なのか?」と、自問自答をすることをオススメします。二度三度と繰り返すと尚更◎。以下に例を載せておきますので、参考にしてみてください。

 

例)ライブの感想を書きたい
なぜ書きたいのか?
→◯◯という曲で感動したから
なぜ感動したのか?
→歌詞が自分の心境と重なったから
なぜ重なったのか?
→実は最近、××で…。

 

…という具合に、自ずと詳細が見えてきます。

 

3. 理想的な構成とはなにか?

3-1 ブログの出来栄えは構成で決まる!

ここでいう構成とは、ブログの設計図のようなもの。前節では“ブログの行程”を紹介しましたよね? 実はこの構成こそ、全行程の中で最も時間を割く部分。なぜなら、続く本文は、構成に肉付けをしたものに過ぎないからです。ここの精度如何によって、以降の大変さはまるっきり変わります。しっかりしていれば楽になるし、曖昧なまま進むと後で必ず壁にぶち当たってしまう(逆に、行き詰まりを感じた時は構成に立ち返れば解決する場合がほとんどです)!

 

既に述べたように、肝心なのは伝えたいこと・本題を、最も伝わる場所に置くことです。これは、言い換えれば本題が盛り上がりのピークに来るよう話を持っていく。起承転結をつけるということでもあります。

 

(引用元:あなたをロジカルに見せる「起承転結」テクニック)

 
参考までに、以下に私の思う『理想的な構成』の例を載せておきましょう。
 

構成の例
【タイトル】 最も健康的な食事習慣とは?
 ① 一日3食は食べすぎである!
 ② かといって1食は食べなすぎ
 ③ 朝昼夜、『抜く』べきは◯◯
 ④ 最も健康的な食生活はこれだ!


これがなぜ理想的なのか?
順を追って話していきます。

 

3-2 欲求の手綱を握れ!

上の構成を理想的たらしめる要素は2つあります。まずは起承転結がある点。そして、もう一つは、ミステリーとサスペンスを使い分けている点です。はい、初めての概念が出てきました。ときにあなたは、ミステリーとサスペンスの違いを説明できますか? もしかしたら、どちらも同じと思っている方もいるのではないでしょうか。少なくとも私はそうでした。ともすれば混同されがちな両者の定義は、こうです。

  

ミステリー : 答え(=結論)がわからない
サスペンス : 理由(=過程)がわからない



最後まで見ないと犯人が分からないのがミステリー。逆に、最初に犯人は分かるけど、動機や方法が分からないのがサスペンスです。サスペンスでは、犯人はなぜ殺人に至ったのか・主人公は犯人をどのように追い詰めていくのか…というのが見所になります。それぞれ作品名を挙げると、『名探偵コナン』がミステリー。『古畑任三郎』がサスペンスの好例と言えるでしょう。

(引用元: 名探偵コナン原作公式サイト)

 

(引用元: 日本映画専門チャンネル「古畑任三郎」)

 

話を本題に戻します。ブログの大枠として望ましいのは『ミステリー』です。つまり、タイトルで謎が提示され、最後まで読み進めることで答えが分かる…そんな構成。更に言えば、この謎は「言われてみれば確かに気になる」と共感を誘うものでなくてはなりません。なぜなら、大多数の読者は、赤の他人の書いた文章なんて読もうと思わないからです。読者が自分-筆者間に共通点を見出さないことには、その先も望めません。ただし、逆を言えば、興味深い謎は、それ自体が読者を惹きつけるということでもあります。言わば、どれだけ「あるある〜」と思わせられるか? ここに全てがかかっているのです。なお、謎を考えるときは、答えが『本題』になるよう逆算してみると良いでしょう。

 

一方、ブログを形作る各節はサスペンス形式であるべきと言えます。なぜなら、読者は前述の答えを最後まで待てないからです。
文章が長ければ長くなるほど、読者はタイトルの謎が明かされないことにじれったさを感じるようになります。鼻に人参をぶら下げた馬はそれを目当てに走りますが、どれだけ走っても食べられないと分かったら足を止めてしまいますよね。それと同じです。読んでも答えが分からない(または分かったとしても当分先)と判断したら、読者は容赦なく手を止めてしまうのです。第一の壁──『読まれる・読まれないの二択』を越えたら、今度は『読み進まれる・脱落するの二択』を越えなくてはならないなんて、ホント大変ですよね。では、この第二の壁を突破するにはどうしたら良いのでしょうか?

 

辛抱強く読んでくれる人を待つか?

 

短くまとめるか?

 

もちろん、上記の方法も間違ってはいませんが、私の思う答えは別にあります。そう、お察しの通り『サスペンス』です。節の中で完結する謎解きを──最初に結論が明かされた状態で話を進められたら、先のフラストレーションを緩和することが出来る。つまり、 答えを知りたい欲求を埋め合わせられるのです。なお、先ほどとは打って変わって、このときの答え・結論は不可解であればあるほど良いと言えます。その訳はもちろん、理由が気になるからです。

 

例えば2時間ドラマがあったとして、『妻を刺殺した夫の話』と『念じるだけで人を殺せる自称・超能力者の話』なら、明らかに後者の方がトリック・アリバイが気になりますよね?ミステリーが「謎の答えは何だろう?」なら、サスペンスは 「何でその答えになるんだろう?」という疑問をもって、読者の好奇心を煽るのです。

 

とはいえ、ここまで聞くと、「タイトルでも結論を書けば良いじゃないか」と思われるかもしれません。その疑問はごもっともですが、タイトルはあくまでミステリー。疑問文であるべきです。というのも、いきなり結論から入ってしまうと、「コイツ何訳わかんないこと言ってんだ?」と見向きもされない危険があるから。要は読者が面食らってしまい、置いてけぼりを喰らうのです(仮に結論が正しかったとしてもです)。順序立てて話をしなければ伝わるものも伝わりません。つまり、皆が気になりそうな疑問を提示することには、「私は皆さんと同じ感性・常識を備えてますよ」とアピールし、脱落者を減らす狙いも含まれていた訳ですね。

 

ここまでを踏まえると、ミステリーの中に複数のサスペンスが盛り込まれている…。そんな入れ子構造こそ、理想的な構成。もっと言えば、各節で触れた要素が、タイトルの謎を解明する手掛かりになってゆくとベストです!

 

【タイトル】最も健康的な食事習慣とは?
記事に一貫する謎を提示
⬇︎
① 一日3食は食べすぎである!
② かといって1食は食べなすぎ
③ 朝昼夜、『抜く』べきは◯◯
見出しで結論を述べている
⬇︎
④ 最も健康的な食生活はこれだ!
冒頭の謎の答え合わせ



4. 本文を彩る修辞技法とは?

前述の通り、本文とは構成に肉付けをしたものに過ぎません。ですが、その『肉付け』の仕方も、読者の印象を左右する要素の一つです。素材が良くても調理が最低なら、出てくる料理は激マズですよね。それと一緒です。よってここでは、伝えたい本題が齟齬なく読み手に届くための修辞技法をいくつか紹介しましょう。

 

①一文は短く区切る

原則的に、日本語は長文に向いていません。読み手に誤解を与えやすいからです。どういうことか、よくわかる例を紹介しましょう。

 

Q. 正しい説明はどれ?

『黒い髪の綺麗な女の子』

 ① 黒髪の美少女
 ② 黒髪が綺麗(顔の情報は不明)
 ③ 黒髪の美女+その娘(娘の情報は不明)

 

A.すべて 

 

  

もしかしたら、3択以外の解釈もあるかもしれません。それも正解です。参っちゃいますね。
このように、こんなにも短い一文なのに複数の解釈が存在し、更にどれも正解になり得てしまうのです。日本語には、英語の関係詞(この修飾語はどこを補足してますよ〜と示す単語)にあたる文法が存在しませんから、とある事象を説明しようと思ったら、その特徴は出来る限り小分けにして書くべきなのです。上の文も、このように書けば幾らか誤解を減らせるでしょう。

 

黒髪の少女がいる。
その子は綺麗な顔立ちをしている。

▲言葉での説明が難しければ、画像を使うのも手
 

②Yes But話法

「確かにA、しかしB」と、本題に入る前に一般論に触れる展開の方法です。この話法を使う利点はふたつあります。まずは、前述した常識人アピールが出来る点。そして、疑うまでもないと思っていた当たり前を覆すことで、読者に大きなカタルシスを感じさせられる点です。本記事でも多用しているやり方ですね。

 

③PREP話法

最初と最後に結論を言う話法。最初に結論を言うという点において、この話法は先の『サスペンス』に近いと言えます。これを使うと、読者の好奇心を掻き立てられるのは勿論、なんとなくしっかり考えてそうに見えるという思わぬ副産物も得られたりします。ちなみに、分かりやすい例として『アトム法律事務所』というYouTubeチャンネルでは、このPREP話法が多用されています。以下に動画を添付しておきますので、気になる方はぜひ見てみてください。


www.youtube.com

 

④接続詞=強調語

『そして』『しかし』『つまり』など、何かと便利な接続詞ですが、使用の際は要注意。というのも、この接続詞こそ、ブログをお蔵入りさせる主因に他ならないからです。

例えば『今日は曇りですが、私は元気です』という文。一見筋が通ってそうに見えますが、よく考えると、天気が曇りであることと私が元気である事には何の因果関係もありません。このように、接続詞は、本来無関係であるはずの文どうしを強引に繋げてしまう! これが大問題なのです。

確かに、接続詞を使うと、文章がいかにも論理的であるように見えます。ですが、この『かりそめの論理』を濫用すると、気付かない間に話が本筋から逸脱し、いつの間にか取り返しの付かない破綻が生じてしまうのです。タチが悪いのは、『なんとなく繋がってそうに見える』せいで、破綻が生じた箇所や理由がわからないということ。こうなってしまっては手の施しようがありません。ゆえに接続詞の濫用は厳禁なのです。

 

とはいえ、接続詞は正しく使えば有用なのも事実。中でも、特に効果的な用法は強調です。「つまり」「しかし」とか書かれてると、読者は後ろに重要な内容が来ると身構えることができますよね? 他にも「A, B, そしてC」という文があると、読者は、

 

(3つの中ではCが一番大事なんだろうな)

 

…と察してくれるでしょう。何事も使いようなのです。

 

修辞技法のまとめ
① 一文は短くする!
 長文は誤解を招きかねない
② Yes But話法
 確かにA、しかしB
③ PREP話法
 最初に結論を言う、所謂『アトム構文』
④ 接続詞=強調語
 濫用は行き詰まりの原因になる!



5. おわりに

厳しいことを言うようですが、「絶対に伝えたい!」というメッセージが無いなら、ブログを書くことはオススメしません。これまで紹介した方法を使ってブログを書くと、脱稿までには半端なく長い時間を要します。良くて数日。悪いと数ヶ月とか平気でかかるんですよね。良くも悪くも根気頼み過ぎるのです。
執筆のやる気は最初がピークで、日にちが経つほど、モチベーションは落ちていきます。
飽きもそうですが、それ以上に「あれ、もっと面白くなるハズだったのに」と自分に失望したり、考えがまとまってくると逆に、自分の中で話が完結して「わざわざ皆に向けて書かなくて良くない?」という気持ちにさえなってしまいます。確固たる意志がないとガス欠を起こしてしまうのです。
ただ、逆に言えば熱量さえあれば(そんな忠告跳ね除けてやるくらいの気持ちがあれば)、ブログもきっと上手くいくでしょう。紹介した書き方を実践するも自由。しないも自由。良いように使って、貴方だけのブログを是非書いてみてください。がんばって!!

【感想】harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」とは何の物語だったのか【ハルモエブログ】

 

👼CONTƎИTƧ👿

 

🍎Prologue


──“Love is a fiction, but love is a reality!
”

画像はすべて『【harmoe】『セピアの虹』Music Video Full ver.【1stアルバム】』より引用
(下段の文章は筆者加筆)

 

【harmoe】『セピアの虹』Music Video Full ver.【1stアルバム】 - YouTube


🍎善と悪。空想と現実。

Ⅰ

2ndツアーのコンセプトは、かなり早い段階から仄めかされていた。『GOOD and EVIL』というタイトルが発表されたのは3月8日──ミニアルバム『Villans:impress』の発売記念生放送で、これはなんとライブから半年近くも前のことだった。

以降、公式X(旧 Twitter)等では度々、「善と悪の物語」というフレーズを用いて、ライブのアナウンスがなされていく。さらに数か月後、リリースイベント内のミニライブでは、まるで既存の歌詞を引用するかのような形で、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖にとっての“善悪”の何たるかが示された。

いい子ぶって愛想笑いしてるなんて
Wonder girl, Wonder girl

Wonder girl / harmoe

いつかいい子になれるといいな

ふたりピノキオ / harmoe


それぞれ、“いい子ぶって愛想笑いしてるなんて”・“いつかいい子になれるといいな”というフレーズが、悪性と善性を象徴していたように思う。
そして、いざ迎えたライブ本番では、白と黒を取り入れた衣装や、幕間における「善も悪も私」のナレーションなど、兼ねてよりのコンセプトが、これでもかというほど表現されていた。こうして見ると、2ndツアーは確かに『善と悪の物語』だった。1stツアーのアンコールで突如映された文言“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go to the villans world”から、一年越しの伏線回収が果たされたと言っていい。

だが、それだけだったのだろうか。

天秤にかけられていたのは、善と悪だけだったのか。『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』とは、本当に“善と悪だけの物語”だったのだろうか? 結論から言うと、答えは“NO”だ。ひょっとしたら善悪さえも、より大きな“目的”を叶える“手段”の1つに過ぎないのではないか?‥‥というのが、私の考えである。


Ⅱ

私が上記の疑問を抱いたのは、ライブ後の打ち上げアフタートークにおける、沢口かなみ先生の発言がキッカケだった。

はるちゃんはしっかり正確に踊るタイプの人で、もえぴは結構パッションの人だなって印象。でも、通して見てて、QUEENらへんの はるちゃんは、らしくないくらいパッションに傾いてて(…)いつもの正確さも はるちゃんのいい所なんだけど、2人ともとってもパッションで良かった

(2023. 8. 17 『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」打ち上げアフタートーク』より一部抜粋)

“正確さ”と“パッション“。
先生も言うように、本来これらに良し悪しは無い。実際、『QUEEN』における岩田さんは、目を離せなくなる気迫に満ちていた。だが、この文言だけを切り取ってみると、なんとなく“パッションの方が、正確さよりも重要である”と取れなくもない。実際、両者を対比するとなると、中立の基準が無いことに気付くのだ。
たとえば、かたや“正確さ”を基準にしたとき、パッション全開な踊りは感情任せで不正確。かたや“パッション”を以て比べたら、正確な踊りには冷淡の評価が下りてしまう。これではいけない。早い話、

のような、優劣のつかない線引きが欲しいのだが‥‥現時点でそれを引く物差しは見当たらない。どうしても、基準がどちらか優位に寄ってしまう。ならば“正確さ”と“パッション”は、なにゆえに“対等”なのだろうか。ここからは一度、別の視点から考えてみよう。

──たとえば、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”と、“今回のライブ”なんてどうだろう?

 

Ⅲ

この項では最初に、私が尊敬してやまないクリエイターの提言を紹介する。

世の中の“創作ブツ”を見渡してみると…小説からマンガから歌詞まで、『作り手が“おのれ”をさらけ出す』タイプと『あくまで“作りもの”として自分を出さない』タイプがある

(ゲームディレクター・巧舟)

https://x.com/takumi_gt/status/1109081802235207680?s=20

 

‥‥この言葉を借りるなら、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまで”は後者。まさに『作りもの』であった。

1stツアーのタイトル『This is 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 world』に象徴されるように、彼女たちのライブは、世界観が徹底して作り込まれた、まるで舞台を観ているかのようなライブだった。いくつか例を挙げよう。


1/3 : スタッフクレジット
まずは、オープニングのクレジットだ。𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブはいつも、演者は勿論スタッフ全員のクレジットから始まる。これは、普段日の目を見ない『裏方』へのリスペクトと言えよう。だが、込められた意図は、必ずしも敬意だけではない。

これから始まる物語を舞台のように見せる。
つまりクレジットには、観客の意識を物語の世界へ引き込む狙いがあったのだ。


2/3: ライブ中の“仕掛け”
ライブ本編が始まっても、この“没入させる仕掛け”は止まらない。顕著に表れていたのは、1st・2ndツアー両方で披露された『passport』だろう。

この曲が披露されるとき、演者たちの表情は、観客からは見えなくなる。イントロと同時に、舞台に『紗幕』がかかるからだ(なお、1stでは演者の背後に・2ndでは手前に幕が降りていた)。

しゃ-まく【紗幕】
主に舞台などで使う、薄く透ける素材でできた幕。そのため、照明を使った印象的なシーンに活用することができる。

(https://www.homemate-research-hall.com/useful/glossary/hall/1595201/)


ライブにて、紗幕はスクリーンの役目を担い、そこには揺蕩う水面の映像が投影された。客席から見た舞台は、さながら巨大な水槽のよう。私は1stツアーを最後列で見ていたのだが、まるで箱庭を覗いている錯覚さえ覚えた程だった。

 

3/3: “筋書き”と“矜持”
極め付けは、中村彼方さん書き下しの“筋書き”だ。
彼女によって、ライブにはそれぞれ、“1st = 世界旅行”“2nd = 善悪の図書館”という軸が通された。これにより、バラバラだった楽曲群の間には繋がりが生まれ、いつしかそれは、数珠繋ぎのような連続性をもつ“物語”の形になった。ここでいう物語とは空想。すなわち、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”は『作りもの』だったのである。

また、ここまでは舞台上で起きていることの話だけをしてきたが、演者が舞台にかける想いも見逃せない。特筆しておきたいのは、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“はる”こと岩田陽葵さんの“舞台人としての矜持”だ。
岩田さんは、2023年5月23日、横浜国立大学にて開催された『はるてるゼミ!in横国』に出演。「舞台に立つ上で譲れないこだわりは何か?」という質問に対して、以下のように答えていた。

ショーとして純粋に楽しんでもらうため、稽古の過程は客に見せない。『岩田陽葵』を出さないようにしている(※)

(2023. 5. 21 『はるてるゼミ!in横国』)

※ イベント内の会話を筆者がメモしたものです。
  細かなニュアンスに差異がありますがご了承下さい。


その他、「稽古中はツイート(現X ポスト)が減る」「ここが大変とかは言わない」と話していた彼女。このように、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブでは、演者・裏方の双方が、ステージから“現実の要素”を排している──否、排していたことが見て取れる。言ってしまえば、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブは“空想の世界”だったのだ。だが、これはあくまで“これまで”の話。では、“今回のライブ”はどうだったか。

 

youtu.be

 

Ⅳ

ときに、水に絵の具を垂らし、色が広がる様子を撮る──このような撮影技法を、俗にインクドロップというらしい。これの面白い所は、たとえわずかな絵の具でも、水の色はまるっきり変わってしまうということ。ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を起こすように、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブでも、持ち込まれた幾つかの要素がステージの様相を一変させた。そんな、彼女たちにとっての“バタフライ・エフェクト”こそが、他ならぬ現実なのである。私の考えはこうだ。

今回の2ndツアーには、これまで無かった現実の要素が加わり、その結果、ステージの在り方が様変わりしてしまった。つまり、2ndに“現実”はあったのだ‥‥故意か偶然かは別にして。

『【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】』より引用

【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】 - YouTube


1/n: 予期せぬ事実

持ち込まれた“現実”の中で特に印象的だったのは、やはり“2ndツアーは開催そのものが危ぶまれた”という予期せぬ事実だろう。

ご存知の通り、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の2人はそれぞれ、ニコニコ生放送やWEBラジオでレギュラー番組を持っており、そのほか、自身が声を担当するアニメのイベント等にも多数出演している。だが、リハーサルも含めたツアー期間中、これらの番組・イベントでは、体調不良による出演調整・キャンセルが相次いだ。
今だから言えるものの、欠席の知らせが飛び込むたび、私の脳裏には、否が応でも『中止』の2文字がよぎってしまったものだ。そこで本項では、ツアー期間中のアクシデントのうち、2人が“生出演”する予定だったものに限って抜粋し、紹介してみようと思う。

【表①】 harmoe 2nd LIVE TOUR 開催までの経緯

筆者作成

※ 表の見方は、左から順に
  日付/予定されていたイベント/出演者 と読む
※ WEBラジオなど収録番組については、
  収録日が不明の為リストから除外した


WEST公演以前で目立つのは、小泉さんに関する『発声を控える形での出演』の一文だ。この時期の小泉さんには“嗄声”の症状が認められ、医師から声を出すことを禁止されていた。そのため、出演したイベントにて彼女は、声の代わりにジェスチャーやスケッチブック、タブレット端末等を駆使してコミュニケーションを取っていた。文字面・絵面だけを見るとコミカルだが、“ライブ直前に発声が許されない”ことの深刻さは想像に難くないだろう。なぜなら、ライブ直前といえば、リハーサルやゲネプロを通じて公演の細部を詰めていく時期だから。結果的にWEST公演は無事に開催されたものの、ブラッシュアップに充てる時間は、1stと比べても確実に少なかったハズだ。

さ-せい 【嗄声】
声帯に病変があるため音声が異常な状態。しわがれ声・かすれ声などの状態

(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%97%84%E5%A3%B0/)


また“不運”は、WEST公演からEAST公演にかけても止まらなかった。むしろ、『くままま』では小泉さん・『サイン会』では岩田さんが、それぞれ体調不良のためにイベントを欠席している。これまでは──形式を変えながらではあるが──出来ていたことが出来なくなったのだから、事態の深刻さは火を見るよりも明らかだ。もちろん、大事を取っての欠席という可能性もあるだろう。だが、いずれにせよ、WEST公演と同様にEAST公演も、開催までに幾つもの障壁があったことには違いない。

このように、『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、2人の体調不良、ないし“ライブ中止の危機”を乗り越えて千秋楽を迎えた。これは、言い換えれば、“開催が危ぶまれた”という予期せぬ“現実”の要素が、ライブという“空想”の文脈に盛り込まれた瞬間でもあったのである。

 

2/n: 『Villans:impress』の特異性
2つ目の“現実”は、ミニアルバム『Villans:impress』、そのコンセプトだ。
『Villans:impress』といえば、本ツアーの一翼を担った作品で、“様々なおとぎ話の「Villans」をモチーフに”することをテーマに掲げている。

これまでにない作風は、我々に強烈な印象を与えた。前述した、公式による『善と悪の物語』のアナウンスも相まって、“本作の醍醐味=敵役(ヴィランズ)目線”という共通認識は揺るぎなくなったと言って良い。確かに、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖がこれまでに表現してきたのは“おとぎ話の物語”──抽象化された世界そのもの──止まりだったから、そこから一歩踏み込んだのは大きな転機だったといえるだろう。だが、本項の問題はあくまでコンセプトのどこが現実的なのかだ。
このままでは、いまいちピンと来ないだろう。というのも、“新鮮さ”と“現実性”の関係は、別に等式にはなり得ないからだ。注目すべきは、もっと根本的な所にある。

つまり、『Villans:impress』のコンセプトが現実的な理由は、本作において𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は、曲毎に特定の役を演じているからなのである。

M1.QUEEN
「不思議の国のアリス」ハートの女王

M2.Brilliant and bad
「ダルメシアン 100と1ぴきの犬の物語」クルエラ

M3.アンチクライアント
「アラジンと魔法のランプ」ジャファー

M4.眠れぬ森
「眠れる森の美女」マレフィセント

M5.VOICE
「人魚姫」アースラ

M6.Unfair Mirror
「白雪姫」女王

(https://harmoe.jp/disco/impress_canime/)


‥‥「演じるならむしろ非現実では?」
という疑問はごもっとも。例によって、順番に話していこう。

前述したように、“敵役目線の楽曲を歌う”とは、“曲中でその役を演じる”こととほぼ同義だ。これは、感覚としては、アニメのキャラクターによる挿入歌に近い。挿入歌といえば、俳優というよりむしろ、俳優の演じるキャラクターが曲を歌っているイメージだろう。同じことが、『Villans:impress』でも行われていたのだ。『QUEEN』ならハートの女王・『Brilliant and bad』ならクルエラというように、本作の楽曲はキャラクターソングとしての性質が強いのである。
ここで肝心なのは、これらの楽曲を“客前で披露する”とき、演者は歌声に加えて全身をも用いてキャラクターを表現するということ。特に強調したいのは、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のふたりの、鬼気迫るまでの“表情の作り込み”だ。

たとえば『VOICE』における、岩田さんの悲痛を背負った微笑み。「広い海原と束縛はもううんざりなの」と手枷を断ち切るときの、腕と頬の強張り。また、それを見つめる小泉さんの不敵な眼差し‥‥。他にも挙げればきりがない。これらはすべて、ふたりが生粋の『舞台人』であるからこそ実現した表現と言えるだろう。


そして、この岩田さんの“悲痛な笑み”を見たとき、私は舞台『Collar×Malice -白石景之編-(悲恋エンド)』のラスト──最も悲劇的な形で、最愛の人物に運命を委ねる主人公・星野市香の姿──が脳裏をよぎってしまった(ポストの画像3枚目)。


必ずしも同一作品ではないだろうが、貴方にもよく似た瞬間があったのではないだろうか。“あのときの舞台・作品のキャラが、今回のライブに生きている感覚”だ。
言い換えれば、“演じる”という行為によって、これまでふたりが蓄積してきた経験が、ステージにフィードバックされていたのである。つまり、『GOOD and EVIL』は、演者にとっては“現実の経験値”が反映されたライブ。観客にとっては“現実の記憶”が呼び起こされたライブだったのだ。

 

このように、2ndツアーでは、他の何も差し込む余地のなかった“数珠繋ぎの空想”に、“現実”の要素が持ち込まれていた。個々の要素は、取るに足らない砂漠の一粒に過ぎないかもしれない。だが──虹の7色がグラデーションから成るように・蝶の羽ばたきが竜巻を起こすように──革新はいつも、些細な変化の積み重ねなのだ。実際、故意か偶然か、“現実”の要素を含んだ2ndツアーは、まったくの“作りもの”だった1stとは随分違って見えていたハズだ。

 

Ⅴ

閑話休題。話を戻そう。元々、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”と“今回のライブ”を比べたのは、“正確な踊り”と“パッション全開な踊り”が対等な理由を突きとめるためだった。これまでの話が無駄かというと、そうではない。むしろ、先の“空想と現実”の考え方を用いれば、いとも容易く疑問の回答を導けてしまうのだ。ここからは、方程式を解くように、問題の形を変えて考えてみよう。

1/2: “正確な踊り”
そもそも、“正確な踊り”とは、何に対して正確なのか。そう聞かれたとき、我々はもちろん“お手本”と答えるだろう。正確な踊りを目指す人にとって、ダンスの良し悪しは、振付師の動きにどれだけ近づけたかによって決まる。従って、彼等の“理想”は、お手本の完コピということになるだろう。
特筆すべきは、お手本とは、言い換えれば自分ではない誰かの“作りもの”だということだ。“作りもの”とは即ち“創作物・空想”だから、“正確な踊り”とは“空想に対して忠実な踊り”と言えるのである。

2/2: “パッション全開な踊り”
『パッション』とは、激しい感情もとい激情を意味する言葉だ。“パッション全開な踊り”を目指す人にとって、ダンスの良し悪しは、感情をどれだけストレートに表現できるかによって決まる。よって、これが全開なとき彼等は、昂る感情の赴くまま身体を動かしている──つまり、あるがままに踊っているのだ。
重要なのは、このときの感情は、借りものではなく“元々自身に備わっていたもの”だということ。言い換えるとこれは、誰かの作りものではない、即ち“現実の感情”だから、“パッション全開な踊り”とは“現実に対して忠実な踊り”なのである。

ここまで来たら、“正確さ”と“パッション”を比べる基準も見えてきたのではないだろうか。つまり、両者を対等たらしめる線引きとは、“空想と現実のどちらに忠実か?”。この条件において、“正確な踊り”と“パッション全開な踊り”は対等と言えるのだ。

 

さて。紆余曲折を経たが、本項は、当初の疑問について一定の回答を出せたように思う。“Fiction and reality”。“空想と現実”。対をなす存在の両者だが、それは、ふたつが対等なことの裏返しなのだ。随分と長くなったが、本記事もこれにて〆とさせていただこう。

 

 

 

‥‥と言いたいところだが、ちょっと待って欲しい。

 

この記事の、本当の問題提起は何だったか?

 

“正確さとパッションが対等な理由”だったか?

 

‥‥いやいや、そんなことはない。

 

タイトルにもあるように、この記事が真に解き明かしたいのは、“harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」とは何の物語だったのか”だ。本節の冒頭で私は、「善悪は“手段”の1つに過ぎないのではないか」と書いたが、“空想と現実”さえも、とある目的を果たすための手段だとしたらどうだろう。

“現実”を話す際、本項では何度か「故意か偶然か」という枕詞を用いたが、果たして本当に、“現実”はたまたま持ち込まれたに過ぎないのだろうか?

 

‥‥結論から言うと、答えは“NO”だ。


🍎空想と現実。恋と愛。

画像は以下より引用
①『【harmoe】『きまぐれチクタック』Music Video Full ver.【1stシングル】』
②『【harmoe】『マイペースにマーメイド』Music Video Full ver.【2ndシングル】』
(下段の文章は筆者加筆)

https://youtu.be/Ze1LyBclEuM?si=YuktXygYxYyaO2AR
https://youtu.be/l9686I2-lxA?si=86BVZcS0hZa6n9jU

 

Ⅰ

とはいえ。前節で触れた“現実”のうち、ひとつはあくまで不測の事態だった。もうひとつも、人によっては“単なる見え方の問題”に映ったかもしれない。確かに、現時点ではその見え方を否定出来ないし、少なくとも議論の余地は残るだろう。ただ、たとえふたつが偶然に過ぎなかったとしても、私は“現実=手段”の仮説を変えるつもりはない。なぜなら、持ち込まれた要素は、なにもふたつだけではないからだ。“現実”の中には、明らかに意図的なものもあり、その一例と言えるのが、『Villans:impress』に収録された『アンチクライアント』、その歌詞である。

3/n: 『アンチクライアント』
この曲の“現実性”を語る上で重要なのは、“第四の壁”・“メタフィクション”の考えだ。
まず“第四の壁”とは、観客席(=現実)と舞台(=空想)の間に概念上存在する透明なカベのこと。原則的に、物語のキャラクターは、“壁”を隔てた観客を認識しない。だが稀に、彼等が我々の存在に気付いたり、あるいは話しかけてくることがある。古くはTVドラマ『古畑任三郎』の古畑任三郎・最近では『少女⭐︎歌劇 レヴュースタァライト』のキリン等がそれにあたる。

出典: 少女☆歌劇 レヴュースタァライト #12 「レヴュースタァライト」

「私は今、画面の向こうの貴方に話しています」


とでも言うように、彼等は“こちら”に語りかけるのだ。そして、このように“第四の壁”が破られることを、現代では“メタフィクション”と呼ぶのである。ここまでを踏まえて、『アンチクライアント』が“メタフィクション”である理由を考えてみよう。“観客席”と“舞台”‥‥。それらを連想させるフレーズが無かっただろうか?

金曜日 すいてる映画館で観た
ヴィランズが与えてるメッセージ

アンチクライアント / harmoe


この一節から読み取れる内容はひとつしかない。すなわち、舞台の上でヴィランズを演じていたハズの𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が、客席(≒聴き手)側に腰掛けているのだ。先の定義に当てはめるなら、この歌詞は紛れもない“メタフィクション”だし、そこには明確な意図があると言えるのである。さらに言えば、ふたりが観客席に身を置いている以上、この歌詞も当然“現実的”ということになるわけだが──なればこそ、気になるのは𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が“現実”を盛り込んだ理由。必然も、偶然さえも巻き込んで舵を切ったその先には、一体何が待っているのだろうか。


‥‥答えは驚くほど単純で、それは“次なる物語”だ。

 

Ⅱ

前節で述べたように、1stツアーで映された“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go to the villans world”のフレーズは、ユニットの未来を占う指針だった。実際、告知以降、“敵役”をテーマに据えたミニアルバムがリリースされ、“善悪の物語”を謳った2ndツアーが敢行されたのだから、ライブにおける“アナウンス”は、彼女たちの“次なる物語”を暗示していると考えていい。すなわち、2ndツアーの最後に投影された一節、“With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”も、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の今後を象徴しているハズなのだ。

With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE

harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」


ただ、1stと2ndでは大きく異なる部分がある。つまり、2ndツアーの文言は、前者と比べて明らかに“ライブとの結び付き”が強いのだ。根拠となるのは、ミニアルバム『Villans:impress』のタイトルと、前述の“with “i””の部分である。

第一に、『ヴィランズ』の正しい綴りは『villains』で、『Villans』ではない。本来あるハズの“i”は、アルバム名もとい1stツアーのアナウンスから綺麗に消えてしまっていたのだ。その後、失われた“i”がどうなったかというと、1stツアーから足がけ1年、2ndツアーの“フレーズ中の一単語”としてようやくの帰還を果たしたのだった。

ここまでを踏まえると、2ndツアーと𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これから”には連続性があると言えるだろう。そしてこれは、裏を返せば『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、“with "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”への橋渡しの役割を果たしていた──ライブの目的は、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“物語を繋ぐ”ことだったということになる。“善悪”も“現実”も、この目的を叶えるための手段だったのだ。


‥‥だが、これらの要素は、どうして“手段”たり得たのだろうか?

 

Ⅲ

確かに、“善悪”や“現実”は手段であった。だが、手段とは道具のような物で、用途が分からなければ仕方ない。中世の農民にナイフとフォークを渡しても、彼等は食器を“鋭利な延べ板”くらいにしか思えないだろう。それと同じだ。手段を知るにはまず、“目的”を知らねばならないのである。そこで本項では、“With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”を読み解く所から始めようと思う。このフレーズの直訳は、こうだ。

① “i”と共に、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖はLOVEを探しに行く


“look for A”は、“Aを探す”という意味の慣用句だが、問題はそこではない。現時点で私は、““i””と“LOVE”を訳さずに残している。理由はそれぞれ、““i””は、引用符(“”)で強調されているから・“LOVE”は、複数の意味を持つ多義語だから。言わば、ふたつの単語は、フレーズを理解するキーワードなのだ。ただし、逆に言えば、これらの訳を誤ると、解釈は明後日の方向に向かうということでもある。たとえば、以下に載せるのは、私の当初の勘違いだ。


② 愛と共に、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は愛を探しに行く


私は元々、「“LOVE”の意味は愛だろう‥‥“i”だけに」などと、“i”と“LOVE”を同一視していた。だが、これでは、“既に持っている愛を、わざわざもう一度探しに行く”という、奇妙な文が出来上がってしまう。従って、少なくともどちらか片方は誤訳。“愛”と読んではいけなかったのだ。

では、どちらを愛と訳すのかというと、答えは“LOVE”だ。もっと言えば“LOVE”には、よく似た言葉で“恋”の意味もあるが、ここでは絶対に“愛”を取らなくてはならない。それはなぜか?


1/2 : 恋と愛。
“LOVE”や“恋愛”の一言で片付けられることもあるくらい、恋と愛は混同されがちだ。確かに、誰かを好きという点で、両者が類似していることは間違いない。だが、似た者同士でありながら、わざわざ別の言葉が作られたのもまた事実。ふたつの間には、区別しなくてはならない“明確な違い”があるハズなのだ。まずは、それぞれの一般的な定義から押さえてみよう。

こい【恋】
特定の他人に強くひかれ、慕う気持ち(※)。

あい【愛】
① いつくしむ。かわいがる。
② たいせつにする。 ③ 惜しむ。

池田和臣, 山口明穂, 和田利政, 1960, 『国語辞典』旺文社.

※ 引用元には『特定の異性』と記載されていたが、
  ここでは『特定の他人』に改編してある。


正直、単体ではイマイチ違いが分からないだろう。
ここは一度視野を広げ、単語を用いた慣用句も見てみた方が良さそうだ。たとえば、恋ならば、“恋心を秘める”・“恋は盲目”。愛ならば、“愛を注ぐ”・“愛を込める”‥‥。

‥‥さて、今度はどうだろう。
違いが浮かび上がってきたのではないだろうか?

つまり、恋心を秘めるのは“心の内側”。愛を注ぐ相手は、自分以外の誰か──すなわち“心の外側”にいる他人なのである。恋と愛では、“好意”という感情の矛先が、真逆を向いていたのだった。それだけではない。

恋は盲目とは、“恋をすると、人は周りが見えなくなる”という意味の言葉だ。これは、言い換えれば“恋をすると、人は自分が欲する情報しか取り入れなくなる”ということ。すなわち、彼等は不都合な事実を排除しているのである。良い部分だけを見て、悪い部分からは目を背けているのだから、恋には現実逃避の側面も認められるのだ。そして、現実から逃げた先にあるものはというと、それは自意識・ないし内宇宙。両者を一括りにした“空想の世界”だ。

逆に、誰かを愛するとき、人は相手の良い部分も悪い部分も受け入れなくてはならない。それに、降りかかる不運や障壁さえも乗り越えなければならない。この意味で、愛とは極めて“現実的”な感情と言えるのだ。


さて。これまで考えてきたのは、“LOVEの訳に相応しいのは恋か愛か”のハズだった。にもかかわらず、今や問題意識は、見飽きるほど出てきた二項対立にすり替わっている。すなわち、空想か現実か‥‥だ。『恋=空想, 愛=現実』として、“With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”に代入すべきは、どちらの等式なのだろう?


2/2 : Love is a potion
この問題の鍵を握っているのは、やはり2023年10月11日発売の5thシングルだろう。
シングルの表題曲『Love is a potion』は、リリース以前、すなわち2ndツアーで先行披露された過去を持つ。アナウンスと同じ日に歌われた新曲は、いわばその“直系”ともいうべき存在。フレーズの意向を最も強く汲んでいるハズなのだ。
そこで本項では、『Love is a potion』の歌詞から、手がかりになる部分を探してみようと思う。

何回 騙されたり 傷ついても
話を キミが聞いてくれた

Love is a potion / harmoe

 

些細な毎日を 探検して ねぇ聞かせて

Love is a potion / harmoe


引用した歌詞には、彼女たちにとっての“LOVE”が凝縮されていると言っても過言ではない。順番に検討してみよう。まず、ひとつめの歌詞について。誰かに傷つけられたとき、その人が採り得る選択肢は以下のふたつだ。

A これ以上傷つかない為、自分の世界に閉じ籠る
B 痛みを受け入れ、この世界に留まる

Aが他ならぬ現実逃避であるように、選択肢はそれぞれ“空想”と“現実”に対応している。ここでは、実際にその状況に出くわしたとき、どちらを採るのが正しいのか‥‥なんて論じるつもりはない。ただ、少なくとも、この曲で𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が選んだのはB。つまり彼女たちは、“私とキミ”で支え合って、この世界に生きることに決めたのである。これは、続くふたつめの歌詞についても同じだ。

普段我々が遭遇する出来事は、必ずしも重大なことばかりではない。むしろ、生活は、小さな幸せと不幸せの連続で成り立っているのだ。劇的な毎日なんてものは、空想の世界にしか存在しないのである。そして、これを踏まえて歌詞を見ると、この曲で𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が身を置くのも、我々となんら変わらない“些細な毎日”。つまり、彼女たちはここでも現実を生きているのだ。


以上、本項では恋と愛の違いと『Love is a potion』の歌詞を検討してきた。小括すると、“愛という感情”もとい『Love is a potion』の世界観は、どちらも現実的であった。この共通点ゆえに、“With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”における『LOVE=愛』と結論づけられるのである。

『【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】』より引用

【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】 - YouTube

ちなみに、これは余談だが、『Villans:impress』に収録された『Unfair Mirror』は、上の結論の説得力を逆説的に高めている。どういうことかというと、誰かを愛するとき、人は相手の良い部分も悪い部分も受け入れなくてはならなかった。これは、裏を返せば、“清濁併せ吞まないと、人は誰かを愛せない”ということでもある。では、この“誰か”のうち、我々にとって1番近しい存在は何者だろう?


恋人? 家族?‥‥残念ながら、どちらも外れだ。


種を明かすと、我々にとって最も身近な誰かとは、他ならぬ“自分自身”なのだ。自分に対して出来ないことは、当然相手にも出来ない。ゆえに人は、“自分を受け入れなければ他人を愛せない”のだ。私が『Unfair Mirror』を引き合いに出した理由も、丁度ここにある。

本当の自分を見つめたら
初めてあなたを愛せるのかな

Unfair Mirror / harmoe


彼女(=女王)が見ているのは、鏡に映った自分。すなわち、ただの“虚像”でしかない。見たい部分だけを見て、それ以外からは目を背けているせいで、女王は“あなた”を愛せないのだ。


ということで、余談はここまで。
“With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”のLOVEが“愛”と訳されるなら、手前の“i”は一人称の意味で読むのが自然だろう。ただし、これまでの文脈的にも、“i”が引用符で強調されていることからも、それが普通の“私”でないことは明らかだ。直前で述べたように、他人を愛するにはまず、自分自身を受け入れなければならない。だからこそ、ここでいう“私”とは、良いも悪いも引っくるめた“ありのままの私”。そして、長らく検討を重ねた一文の訳はこうなるのだ。


③ ありのままの自分と、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は愛を探しに行く

 

Ⅳ

前項にて、私は以下のように述べた。すなわち、“『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、次なる物語への橋渡しをしていた”。物語の全容が“愛を探す旅”と分かった今ならば、長らく謎だった、目的を叶える手段が“善悪”や“現実”だった理由にも説明がつく。

まず、繰り返しになるが、愛とは現実的な感情で、誰かを愛するとき、人は相手の良い部分も悪い部分も受け入れなくてはならなかった。ところが、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖がこれまで築いてきたのは、もっぱら“作りもの”・“空想だけの世界”。彼女たちはむしろ、それ以外を排除さえしていた。それゆえに、愛を表現しようと思ったとき、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は新たに“現実”の概念を取り込まなければならなかったのだ。

4-7/n=7: The others
だからこそ。もともと正確な踊りを得意としていた岩田さんは、動きに“パッション”を取り込んだ。ミニアルバム『Villans:impress』には、観客が過去の記憶を連想するよう、曲ごとに“特定の役”が設定された。中村彼方さんは、ふたりに善悪を教えるため、2ndツアーのテーマを“図書館”に据えた。空想だけの世界から飛び出すため、セットリストの冒頭に『空想エスケープ』の名を持つ曲を入れた。

‥‥そして、それらの象徴として、『GOOD and EVIL』を冠するライブが行われた。つまり、これまでのすべては繋がっていたのだ。


さて、以上が“『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、愛を探す旅への橋渡しだった”ことに対する説明のすべてだ。途中、話題が何度も移り変わり、時には混乱を招く箇所もあっただろう。それでも最後まで読み進めて下さった貴方が、少しでも有意義な知見を得られていたのなら、筆者としてこんなに嬉しいことはない。このまま良ければ、エピローグまでお付き合い頂けると幸いである。


 


‥‥ただし、話はこれで終わりではない。




2ndツアーと𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これから”が繋がっていたように、実は、『GOOD and EVIL』と1stツアー『This is harmoe world』の間にも、れっきとした繋がりがあるのだ。証拠となるのは、1stツアーの中核をなしたアルバム『its a small world』だ。

世界中を旅しながら、
その地の童話に出会い、影響され、
表現していくharmoeならではの物語を
アルバムで表現します!

『harmoe 1stアルバム「It’s a small world」きゃにめ盤』
https://canime.jp/product/SCCG000000101/

harmoe公式X(@harmoe_official)より引用

https://x.com/harmoe_official/status/1510483830309748741?s=20


紹介文にもあるように、このアルバムのコンセプトは世界旅行だった。収録曲『一寸先は光』『セピアの虹』の歌詞を引用すると、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が旅に出た理由は、“まだ見たことのない僕に会う”ため、ないし“自分に足りないものを探す”ため。つまり、この旅の目的は“自分探し”だったのだ。そして、これこそが、過去と未来を繋ぐ最後のピースに他ならないのである。今までの話はこうだった。

“誰かを愛するには、自分や他人の
ありのままを受け入れなければならない“。

他人と関わる時、相手は自分に、「揺るぎないその人らしさ」を求めてくる。この点において、人生は物語に等しいと言っていい。小説や物語の登場人物は、場面によって設定が変わってはいけない。なぜなら、設定が破綻したら読者を困惑させてしまうから。人生とて、それと同じなのだ。誰かと関わるにも、その時々で性格が変わる人とは接しづらいし、“自分らしさ”を持つ人には心も預けやすい。つまり、相手と深く関わるほど、誰かの人生の登場人物になるほど、自分を受け入れるという行為(=アイデンティティの形成)は必要不可欠なのだ。

ただ、愛の順序は“自分を受け入れること”が最初ではない。自分を受け入れるにはまず、そもそも受け入れる対象──“自分自身”を見つけ出さなくてはならないのだ。

図① 人が誰かを愛するまでに踏む過程
筆者作成

 

すなわち“自分探し”とは、他人を愛する上で最初に通らなければならない洗礼。だからこそ𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は、自分探しの世界旅行に出て、善悪の図書館へと招かれたのである。つまり、『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の過去と現在、そして未来を繋ぐための物語だったのだ。

──“Love is a fiction, but love is a reality!”
──空想の恋と、現実の愛!

 

🍎Epilogue

ご挨拶が遅れました、ノットです。
まずは、ここまで読んで下さり誠にありがとうございました! いまエピローグを入力している時点で、総字数は17,000字。本当に長く書き過ぎたし、ライブから時間が空き過ぎちゃいました。この期に及んで感想とか、とっくに記憶は薄れてるだろうに‥‥我ながらちょっとどうかしてますね。まあいいや。

さて、このブログを書き始めた当時。最初の目標は、“皆さんに𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖を布教すること”でした。ルームメイトの諸兄はもちろん、差し出がましくも、本記事で𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖を初めて知った人が興味を持ってくれたら良いなと思ったのです。“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖”って面白いフォントでしょ? ルームメイトって、クラスメイトみたいでしょ? それぞれに海より深い理由があるのですが、、まあ、これもいいか。詳しくは公式サイトを見て下さい。

そんでもって。一言で布教といっても簡単なことではなく。そのために今回とった方法というのが、私の観た2ndツアー・すなわち“現実を巻き込んだ物語”を、読者である貴方に追体験させることでした。途中、何度かポエム読まされたでしょ? あれ、私の自作です。秋は人を詩人にしますね。

‥‥しますよね? するんですよ。

とまあ、とにかく、書き進めるほどに目的はどんどん増えていきました。それぞれの意図がちょっとでも伝わってたら、書き手冥利につきます。嬉しい。そして何より、当初の目標が達成されてたら、私としてはここまで書いてきて良かったと報われます。以下に、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”のセットリストを載せておくので、興味をもってくださった方は是非聴いてみてください。こちら、公式YouTubeチャンネルが作ってるものなので、どうかご安心くださいね。また、ユニットのオフィシャルファンクラブ『はるもえroom』のURLも貼っておきます。ファンクラブとだけあって会費はかかります(月額550円)が、魅力的なコンテンツが沢山供給されているので、併せて足を運んでみてください。加入して後悔はさせません‥‥なぜなら、万が一後悔させたら、そのときは私が会費を奢るからです。

 

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最後に、本記事を書く上で沢山の助言をくださったAさん・Pさん・Sさん・Yさん。主観と我儘だらけの相談に乗ってくださり、どうもありがとうございました! この場を借りてお礼申し上げます。

 


ノット

【感想】太陽の季節。Aqoursにはじめて会った夏【Aqoursぬまづフェス】

 
 
こんにちは、ノットです!
 
先日、『輝け! Aqoursぬまづフェスティバル in よみうりランド』に行ってきました。体験したすべての出来事が楽しくて、“一生忘れない1日”を過ごさせて貰いました。
 
今回は、そんな 『Aqoursぬまづフェス』の感想を綴らせていただきます。よろしくお願いします🙌
 
※ 画像は、公式HPより引用
 
正直に言うと、私は元々、当イベントに行く予定はありませんでした。参加を決めたキッカケは、ある方が書かれたブログです。
 
ブログはとても面白く、何より、誠実な語り口に好感が持てました。Twitterにて、私は、この記事の感想を引用RTしました。
 

 
こんなツイートをした手前、引くに引けなくなった……というのも、動機としては大きかったと思います。
 
もちろん、嫌だったわけではありません。私がいくらオタクとはいえ、興味のない物に7000円も払いません。とはいえ、義務感が全く無かったと言うと、それもウソになるでしょう。
 
参加前の私は、「仕事無いし、行ってもいいかな?」くらいの考えでいました。会話のネタにもなるし……みたいな。
 
ただ、結果としていま筆を執っているのだから、『Aqoursぬまづフェス』は、私の中の前評判を覆したということでもあります。
 
……いや、すげぇ良かったんすよ、本当。
 
 

初上陸!よみうりランド

 
5月22日、日曜日。多摩(らへん)。
 
そこには、予報はずれの晴れ空が広がっていました。いつもよりも濃く、深い青空は、見る者に新しい季節の訪れを感じさせます。電車を降り、最初に目に止まった景色がこれです。

 

※ 撮影: iPhoneSE 第一世代(無加工)

 
夏色の空があまりに綺麗で、私は、連番者さんを待たせているにもかかわらず、思わずシャッターを切ってしまいました。
 
このとき、時刻は9時50分。開演まではまだ余裕がありました。そのため、私は、お気に入りの1枚を収めてからも、手に持ったスマホをあちこちに向けて歩いていました。
 
京王よみうりランド駅の入口を、パシャリ。
 
逆光で暗くなった看板も、パシャリ。
 

※ 撮影: iPhoneSE 第一世代(無加工)

 
アングル調整のために立膝をすると、日差しを吸収したアスファルトが、既に熱を帯び始めていました。半月板には小石が喰い込み、赤紫色の跡が残ります。この日の私は、白シャツに短パンという出で立ちでした。
 
ポッケから伸びる充電ケーブルを払いのけ、型落ちスマホを構える姿は、なんとも滑稽だったでしょう。子連れの家族の目線が若干刺さりましたが、そんなのを今さら気にしていたら、オタクなんて出来ません。私は、動きやすい格好してきて良かった……などと、呑気なことを考えていました。
 
ですが、写真を一通り撮り終え、進行方向に振り向くと、私は絶句しました。目の前に山しかないのです。それは、“山のようにそびえ立つビル”ではない、本物の“丘陵”でした。まさか、東京でビル以外の「山」を拝む日が来るとは、夢にも思いませんでした。
 
 
(……よみうりランドは何処に?)
 
 
視界に映る景色には、遊園地要素のカケラもありません。状況を確認しなければならない。私は、一度しまったスマホを慌ただしく取り出しました。蒸れた汗が、背中を伝うのを感じました。

 

※ 画像は、公式HPより引用

 
「京王よみうりランド駅」と「よみうりランド」の間には、約1.5kmの距離があります。遊園地へ行くには、徒歩であれば20分、直通のロープウェイを使っても、10分くらいの時間を要しました。ところが、アクセスをろくすっぽ調べずに来た私は、この所要時間を頭に入れていなかったのです。
 
 
(ヤバい! ヤバい!!)
 
 
焦った私は、大急ぎでロープウェイの往復券を購入しました。予想外に激しい昇降にビビりつつ、よみうりランド前に着いたのは10時過ぎ。開演まで、あと何分もありません。挨拶と謝罪もそこそこに、私と連番者さんは、早歩きで会場に向かいました。それでも、最終的に、足を踏み入れた時には滑り込みアウト。丁度、イベントが始まったところでした。
 
待たせた挙句、開演にも間に合わないなんて不覚の極みです。連番を組んで下さったセンケイさんさん、その節は本当に申し訳ありませんでした、、
 
 

体験する物語って、何だ?

 
なかば飛び入りのような形で、『Aqoursぬまづフェス』に参加した私。前情報といえば、先のブログで拝読した内容がすべてで、これから「体験する物語」がどんなものなのか、いまいちピンと来ていませんでした。
 
ですが、そんなそそっかしいオタクでも心配無用。イベントの冒頭に、浦の星女学院の生徒さんが、1日の流れを説明してくれました。当記事でも、概要をまとめておきましょう。
 
【Aqoursぬまづフェス 概要】
 
“東京で沼津の魅力を表現する夢のフェスを作ろうとするも、人手が足りず実現が困難となってしまったAqoursは、助けを求めます。その呼びかけに応え、あなたは「助っ人さん」としてAqoursと一緒にフェスを作る決意をします──”
(公式HPより引用)
 
【当日のタイムテーブル】
 
①開催地へと赴き、
「助っ人さん」として、
フェスの準備をお手伝いする。
(約60分)
↓
②自分や、他の「助っ人さん」
たちが作ったフェスに
自分たちで参加する。
(約55分)
↓
③フェスの締め括りには、
千歌たちAqoursによる
特別ライブが行われる
(約30分)
 
『Aqoursぬまづフェス』は、ランド内の芝生広場を丸ごと貸し切って行う一大イベントです。広場の各地には、『ヨキソバキッチン』や『ぬまづ富士山神輿(みこし)』、『各種展示』など、沼津の魅力を届けるブースが設置されています。けれども、あなたもご存知のように、浦の星女学院は、“生徒数が100人にも満たない、小さな高校”です。人手不足のため、どこも準備が滞ってしまっていたのでした。
 
 
「このままじゃヨキソバが作れないの!」
 
 
「おみこしが完成していないの!」
 
 
ブースからは、浦女の生徒たちの切実な叫びが聞こえてきます。私たち「助っ人さん」の役目は、そんな彼女たちの要請に応じて、「◯◯を手伝ってください!」というミッションをこなしていくことです。
 
もちろん、依頼の内容はそれぞれ異なります。ですが、いずれにおいても、なにか特別な技術を要求されることはありません。例えば、おみこしを作成するのに、トンカチやドライバーは使いませんし、ヨキソバを作るといっても、「助っ人さん」が料理をすることはないので、ご安心を。
 
むしろ、ここで特筆すべきは、ミッションがどれも「沼津を前面に出したもの」だということです。ミッションに取り組むうち、私は、『Aqoursぬまづフェス』が、Aqoursはもとより、“沼津を愛する人たちのためのイベント”である……という印象を受けました。
 
 
前述の通り、依頼をこなす上で、DIYや料理といった、専門的なスキルは要りません。ミッションはあくまでゲーム形式で、楽しみながら・遊びながら出来るものが揃っています。ゲームの一例を紹介しましょう。
 
 
『ヨキソバキッチン』
… ヨキソバの食材の「仕分け」。
 
『ぬまづ富士山神輿』
… 富士山をかたどったおみこしに、
 青色のシールを「貼り付ける」。
 
 

このとき、仕分ける食材はモチロン沼津産ですし、富士山といえば、沼津どころか静岡県の象徴です。このように、各ミッションには、沼津の要素がふんだんに盛り込まれています。極めつけは、『展示ブース』における、沼津のオススメスポット紹介です。

 

出典: 江本典隆 (@jtbpub_chubu)さんのTwitterより引用

 
壁面の地図には、「助っ人さん」選りすぐりの観光地が貼り出されています。ここでは、アニメに登場した、いわゆる聖地はもちろん、それ以外にも、幾つもの名所が紹介されています。沼津港にある海鮮料理の名店や、ピークタイムを外せば、すんなり入れる(こともある)「さわやか沼津学園通り店」。沼津駅北口から送迎バスが出ていて、永遠に時間を過ごせてしまう巨大銭湯「万葉の湯」……など、名所には枚挙に暇がありません。
 
中には、私が知らなかった場所も多くあり、水深日本一(2,500m)を誇る駿河湾の如き、沼津の底知れぬ魅力を思い知らされます。また、狩野川の花火大会の成功祈願なんかもあって、見たときには、思わず涙腺が緩んじゃいました。直筆なのがまた良いですね。無数に貼られた付箋は、さながら沼津愛を競い合うかのようでした。

 

 

(フェスを作るって、こういうことなんだ、、)

 

何も知らなかった私は、この圧巻の光景を目にしたことで、イベントの趣旨──すなわち、「体験する物語」の何たるかを理解したのです。そして、あっという間に準備時間は終わり、一同が見守る中、広場にフラッグが掲げられました。

 
「Aqoursぬまづフェスを開催します!」
 
 
浦女の生徒の掛け声とともに、『Aqoursぬまづフェス』は、盛大に幕を開けたのでした。
 
 

太陽の季節。Aqoursに初めて会った夏

 
太陽が、青空の一番高くまで昇ったころ。『Aqoursぬまづフェス』は、いよいよ本番を迎えました。かんかん照りの日光が、地肌をジリジリと焦がします。自分の前腕を掴むと、白い手形がクッキリ残りました。夏のはじまりです。
 

前述の通り、フェスの本番が始まると、自分たちが「作った」ブースは、自分たちが「参加する」ブースに変貌します。例えば、食材を仕分けた『ヨキソバ』は、調理がなされ、実際にいただけるようになっています。富士山のおみこしも、力我慢の「助っ人さん」たちが担ぐのです。

 
その他にも、会場では、沼津に関する知識を競うクイズ大会「沼津王決定戦」や、輪になって『サンシャインぴっかぴか音頭』を踊る「盆踊り」等、複数の行事が同時進行しています。まさに「夢のフェス」に相応しい、お祭り騒ぎが繰り広げられているのです。
 
もっとも、ここまで聞くと、フェスは「賑やかな場所が好きな人」向けのイベントに見えるかもしれません。きっと、こう思われる方もいるでしょう。「普段、こういった“まつりごと”に参加しない人は、フェスに行っても楽しくないのではないか?」「場違い感を感じるのではないか?」。
 
当然ながら、皆が皆、「賑やかな場所」が好き…なんてことはありません。もちろん、喧騒をきらう人はいます。そうでなくても、自分の感情をさらけ出したり、はっちゃけるのが苦手な人も少なからずいるでしょう。もしかしたら、それが理由で、フェスへの参加をためらう方もいるかもしれません。少なくとも、私にはその節がありました。
 
ですが、蓋を開けてみたら、心配は杞憂に終わりました。何故なら、皆も同じ気持ちと気付いたからです。それは、Aqoursちゃんとて例外ではなく、かつて、楽曲『Pops heartで踊るんだもん!』で、彼女たちは、こんなことを歌っていました。
 
人みしりでも大丈夫さ
おなじだよ 実はかなり shy heart! So, too shy my heart!
そんなの忘れちゃうくらいに
ずっと今夜は騒ぎたいな
Pops heartで踊るんだもん!/Aqours
 
千歌たちでさえ人みしりなのですから、況やオタクをやでしょう。それに、同じなのは、人見知りだけではありません。私と他の「助っ人さん」──もとい、私とあなたは、Aqoursちゃんが大好きな同士なのです。
 
確かに、『Aqoursぬまづフェス』のコンセプトは、「東京の人に沼津の魅力を伝える夢のフェス」です。ですが、フェスは同時に、不器用なくらい全力でAqoursちゃんと沼津を想い続けた、「僕らの、僕らによる僕らのためのイベント」でもあります。言ってしまえば、『Aqoursぬまづフェス』は、大好きを爆発させにきた者たちの集まりなのです。アニメはさておき、アニメの舞台への造詣の深さを競ってる時点で既にヤバいのです(褒め言葉)。気持ちは皆同じなのだから、恥ずかしがることはありません。
 
とはいえ、こういったイベントに不慣れな人の中には、「どう盛り上がればいいか分からない」なんて悩む方もいるでしょう。
 
 
 
(人目を気にする必要はない…)
 
 
 
(参加すれば楽しいのも分かる…)
 
 
 
 
(分かってはいるんだけど……)
 
 
 
かく言う私も、最初の一歩が踏み出せませんでした。フェスの中盤、会場内のミニステージでは、おみこしを囲んで「盆踊り大会」が開催されていました。踊りの曲目は、2ndライブでの披露が印象的な『サンシャインぴっかぴか音頭』です。
 
法被を着たオタクたちが一堂に集う光景は、初めて参加した埼玉公演の記憶を、否が応でも思い出させます。そういえば、当時も照れくさくなって、ちゃんと踊ることが出来ませんでした。頭では楽しいと分かっているのに、どうしても萎縮してしまったのです。あとで後悔するのに。実際、後悔したのに。それにもかかわらず、前回同様、私は二の足を踏んでいました。ですが、そんな様子を見かねてか、浦女の生徒のひとりが、私に声をかけてきたのです。

 

「お兄さん、おいでよ! 絶対楽しいよ?」

 
彼女は、顔中いっぱいに笑顔を浮かべていました。
 
 
「後悔しちゃうよ?」
 
 
彼女の眼には、あの日千歌たちに見た輝きがありました。瞳には、「瑞々しさ」と、前だけを見つめる「ひたむきさ」が宿っていました。その立ち姿は、紛れもない「浦の星女学院の生徒」でした。彼女は、かつて千歌たちが「僕ら」にしてくれたのと同じように、躊躇う私に手を差し伸べてくれたのです。
 
 
(……ああ、今なんだ)
 
 
 
(今が、君と僕とで、進む時なんだ!)
 
 
 

嬉しい気持ちが、湧き上がって弾けるのを感じました。動き出さずにはいられません。連番者さんも巻き込んで、私はついに、盆踊りに参加することにしました。あまりに夢中過ぎて、振付けがどうとか、正しく踊れていたのかとか、細かいことは覚えていません。ですが、ただひたすらに楽しくて、幸せでした。気付けば私は、おみこしの前に置かれたミカン箱の上で、両腕をブンブン振り回していました。

さて、こういった出来事もあり、今回のイベントでは特に、「浦の星女学院の生徒」たちが印象に残っています。底抜けに明るい立ち振る舞いは、アニメからそのまま飛び出したかのようでした。それどころか、現実の沼津の雰囲気さえ纏っていたように思います。彼女たちはきっと、東京より少しだけ穏やかに流れる時間の中で生きてきたのでしょう。それを最も強く感じたのは、生徒たちと千歌たちの、息の合った掛け合いでした。
 
『Aqoursぬまづフェス』には、私たち「助っ人さん」と「浦の星女学院の生徒」に加え、Aqoursのメンバーも参加しています。イベントの最中、彼女たちは、沼津の「あるあるネタ」やスペシャルライブを披露してくれるのですが、あくまでもその姿は、イラストもとい3DCG。前者こそ、新規の立ち絵が描き下ろされていましたが、3DCGに関しては、スクスタのモデルがそのまま使われていました。もちろん、ハイテク技術で飛び出して見えたり、ヒーローショーみたいに着ぐるみが練り歩くこともありません。身も蓋もない言い方をすれば、作り物に過ぎないのです。ですが、今回のイベントでは、本来なら「作り物」であるはずの千歌たちが、まるで実在の人物であるように感じられました。否、本当に千歌たちがいたのです。
 
そのままでは、千歌たちAqoursは「画面の向こうの存在」でしかなかったでしょう。2次元と3次元の間には、原則的に突破不可能な壁があるからです。ところが、「浦の星女学院の生徒」たちは、この壁を越え、「次元の隔たり」の橋渡し役を担ってしまったのです。
 
互いを下の名前で呼び合う両者は、仲睦まじげな雰囲気を醸し出します。種類豊富に録られた台詞によって、会話のキャッチボールも、極めて自然に成立していました。ただ、それ以上にAqoursの存在を実感できた要因と言えば、やはり「浦の星女学院の生徒」の、聖地・沼津の雰囲気をも纏った言動です。元々は、Aqoursと同様アニメの住人に過ぎない彼女たちが、確かに目の前に立っていたからこそ、その延長線上にいる千歌たちのことも、実在の人物と感じられたのだと思います。
 
浦女の生徒を通じて、花丸の口から「沼津グルメあるある」を聞いたとき、笑うと同時に、胸が不思議と熱くなりました。「『どんぐり』さんで注文した料理は、初見だとどう取ればいいか分からない」……。
 
 
や、マルちゃん。マジでそれなのよ。
 
 
今回のイベントで、最も感動的な瞬間でした。立役者のみんなに、心からお礼を言わせて下さい。浦女の皆さん、Aqoursに出逢わせてくれて、本当にありがとうございました!
 
 
 

おわりに

 
いかがだったでしょうか?
かなり駆け足気味ではありますが、自分が感動した場面を中心に、フェスの感想を綴らせて頂きました。とはいえ、この文章を書いているのは、6月4日の午前2時過ぎ。5日に千秋楽を迎えるイベントの感想としては、あまりに遅すぎると言わざるを得ません。もっと早ければ良かったのにと、自分でも思います。すみません、、
 
ただ、大遅刻を承知のうえで、私がここまで筆を執ったのは、『Aqoursぬまづフェス』というイベントが、変わりゆく沼津の「イマ」を伝えるために考案されたイベントだからです。寄せては返す波に同じモノなど無いように、今年の夏は去年とは違います。先日も、仲見世商店街の「マルサン書店」さんが、5月31日を以て、惜しまれつつも営業を終了しました。少しずつですが、沼津は変わってきています。そして、それと同じように、私自身の心の在り方も、日々変わり続けているのです。
 
ひょっとしたら、いつか自分は、今とは全然違う考え方を持つようになるかもしれません。遠い未来、「あの日の自分は、どうしてこんなことをしていたのだろう?」と、忘れてしまう日が来るかもしれません。だからこそ、今、自分が素晴らしいと感じたことを書き留めておきたい。この感動に名前をつけてやりたい。言葉さえ残しておけば、それはいつしか足跡となって、軌跡をいつでも辿れるようになると思ったのです。
 
イマ、Aqoursちゃんを愛する気持ちを形にしたい。そんな気持ちにしてくれる『Aqoursぬまづフェス』なのでした。
 
 

※ 撮影: iPhoneSE 第一世代(無加工) 

 

 

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