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【感想】harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」とは何の物語だったのか【ハルモエブログ】

 

👼CONTƎИTƧ👿

 

🍎Prologue


──“Love is a fiction, but love is a reality!


画像はすべて『【harmoe】『セピアの虹』Music Video Full ver.【1stアルバム】』より引用
(下段の文章は筆者加筆)

 

【harmoe】『セピアの虹』Music Video Full ver.【1stアルバム】 - YouTube


🍎善と悪。空想と現実。

2ndツアーのコンセプトは、かなり早い段階から仄めかされていた。『GOOD and EVIL』というタイトルが発表されたのは3月8日──ミニアルバム『Villans:impress』の発売記念生放送で、これはなんとライブから半年近くも前のことだった。

以降、公式X(旧 Twitter)等では度々、「善と悪の物語」というフレーズを用いて、ライブのアナウンスがなされていく。さらに数か月後、リリースイベント内のミニライブでは、まるで既存の歌詞を引用するかのような形で、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖にとっての“善悪”の何たるかが示された

いい子ぶって愛想笑いしてるなんて
Wonder girl, Wonder girl

Wonder girl / harmoe

いつかいい子になれるといいな

ふたりピノキオ / harmoe


それぞれ、“いい子ぶって愛想笑いしてるなんて”・“いつかいい子になれるといいな”というフレーズが、悪性と善性を象徴していたように思う。
そして、いざ迎えたライブ本番では、白と黒を取り入れた衣装や、幕間における「善も悪も私」のナレーションなど、兼ねてよりのコンセプトが、これでもかというほど表現されていた。こうして見ると、2ndツアーは確かに『善と悪の物語』だった。1stツアーのアンコールで突如映された文言“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go to the villans world”から、一年越しの伏線回収が果たされたと言っていい。

だが、それだけだったのだろうか。

天秤にかけられていたのは、善と悪だけだったのか。『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』とは、本当に“善と悪だけの物語”だったのだろうか? 結論から言うと、答えは“NO”だ。ひょっとしたら善悪さえも、より大きな“目的”を叶える“手段”の1つに過ぎないのではないか?‥‥というのが、私の考えである。


私が上記の疑問を抱いたのは、ライブ後の打ち上げアフタートークにおける、沢口かなみ先生の発言がキッカケだった。

はるちゃんはしっかり正確に踊るタイプの人で、もえぴは結構パッションの人だなって印象。でも、通して見てて、QUEENらへんの はるちゃんは、らしくないくらいパッションに傾いてて(…)いつもの正確さも はるちゃんのいい所なんだけど、2人ともとってもパッションで良かった

(2023. 8. 17 『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」打ち上げアフタートーク』より一部抜粋)

“正確さ”と“パッション“
先生も言うように、本来これらに良し悪しは無い。実際、『QUEEN』における岩田さんは、目を離せなくなる気迫に満ちていた。だが、この文言だけを切り取ってみると、なんとなく“パッションの方が、正確さよりも重要である”と取れなくもない。実際、両者を対比するとなると、中立の基準が無いことに気付くのだ。
たとえば、かたや“正確さ”を基準にしたとき、パッション全開な踊り感情任せで不正確。かたや“パッション”を以て比べたら、正確な踊りには冷淡の評価が下りてしまう。これではいけない。早い話、

のような、優劣のつかない線引きが欲しいのだが‥‥現時点でそれを引く物差しは見当たらない。どうしても、基準がどちらか優位に寄ってしまう。ならば“正確さ”と“パッション”は、なにゆえに“対等”なのだろうか。ここからは一度、別の視点から考えてみよう。

──たとえば、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”と、“今回のライブ”なんてどうだろう?

 

この項では最初に、私が尊敬してやまないクリエイターの提言を紹介する。

世の中の“創作ブツ”を見渡してみると…小説からマンガから歌詞まで、『作り手が“おのれ”をさらけ出す』タイプと『あくまで“作りもの”として自分を出さない』タイプがある

(ゲームディレクター・巧舟)

https://x.com/takumi_gt/status/1109081802235207680?s=20

 

‥‥この言葉を借りるなら、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまで”は後者。まさに『作りもの』であった。

1stツアーのタイトル『This is 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 world』に象徴されるように、彼女たちのライブは、世界観が徹底して作り込まれた、まるで舞台を観ているかのようなライブだった。いくつか例を挙げよう。


1/3 : スタッフクレジット
まずは、オープニングのクレジットだ。𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブはいつも、演者は勿論スタッフ全員のクレジットから始まる。これは、普段日の目を見ない『裏方』へのリスペクトと言えよう。だが、込められた意図は、必ずしも敬意だけではない。

これから始まる物語を舞台のように見せる
つまりクレジットには、観客の意識を物語の世界へ引き込む狙いがあったのだ。


2/3: ライブ中の“仕掛け”
ライブ本編が始まっても、この“没入させる仕掛け”は止まらない。顕著に表れていたのは、1st・2ndツアー両方で披露された『passport』だろう。

この曲が披露されるとき、演者たちの表情は、観客からは見えなくなる。イントロと同時に、舞台に『紗幕』がかかるからだ(なお、1stでは演者の背後に・2ndでは手前に幕が降りていた)。

しゃ-まく【紗幕】
主に舞台などで使う、薄く透ける素材でできた幕。そのため、照明を使った印象的なシーンに活用することができる。

(https://www.homemate-research-hall.com/useful/glossary/hall/1595201/)


ライブにて、紗幕はスクリーンの役目を担い、そこには揺蕩う水面の映像が投影された。客席から見た舞台は、さながら巨大な水槽のよう。私は1stツアーを最後列で見ていたのだが、まるで箱庭を覗いている錯覚さえ覚えた程だった。

 

3/3: “筋書き”と“矜持”
極め付けは、中村彼方さん書き下しの“筋書き”だ。
彼女によって、ライブにはそれぞれ、“1st = 世界旅行”“2nd = 善悪の図書館”という軸が通された。これにより、バラバラだった楽曲群の間には繋がりが生まれ、いつしかそれは、数珠繋ぎのような連続性をもつ“物語”の形になった。ここでいう物語とは空想。すなわち、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”は『作りもの』だったのである。

また、ここまでは舞台上で起きていることの話だけをしてきたが、演者が舞台にかける想いも見逃せない。特筆しておきたいのは、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“はる”こと岩田陽葵さんの“舞台人としての矜持”だ。
岩田さんは、2023年5月23日、横浜国立大学にて開催された『はるてるゼミ!in横国』に出演。「舞台に立つ上で譲れないこだわりは何か?」という質問に対して、以下のように答えていた。

ショーとして純粋に楽しんでもらうため、稽古の過程は客に見せない。『岩田陽葵』を出さないようにしている(※)

(2023. 5. 21 『はるてるゼミ!in横国』)

※ イベント内の会話を筆者がメモしたものです。
  細かなニュアンスに差異がありますがご了承下さい。


その他、「稽古中はツイート(現X ポスト)が減る」「ここが大変とかは言わない」と話していた彼女。このように、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブでは、演者・裏方の双方が、ステージから“現実の要素”を排している──否、排していたことが見て取れる。言ってしまえば、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブは“空想の世界”だったのだ。だが、これはあくまで“これまで”の話。では、“今回のライブ”はどうだったか。

 

youtu.be

 

ときに、水に絵の具を垂らし、色が広がる様子を撮る──このような撮影技法を、俗にインクドロップというらしい。これの面白い所は、たとえわずかな絵の具でも、水の色はまるっきり変わってしまうということ。ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を起こすように、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のライブでも、持ち込まれた幾つかの要素がステージの様相を一変させた。そんな、彼女たちにとっての“バタフライ・エフェクト”こそが、他ならぬ現実なのである。私の考えはこうだ。

今回の2ndツアーには、これまで無かった現実の要素が加わり、その結果、ステージの在り方が様変わりしてしまった。つまり、2ndに“現実”はあったのだ‥‥故意か偶然かは別にして。

『【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】』より引用

【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】 - YouTube


1/n: 予期せぬ事実

持ち込まれた“現実”の中で特に印象的だったのは、やはり“2ndツアーは開催そのものが危ぶまれた”という予期せぬ事実だろう。

ご存知の通り、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の2人はそれぞれ、ニコニコ生放送やWEBラジオでレギュラー番組を持っており、そのほか、自身が声を担当するアニメのイベント等にも多数出演している。だが、リハーサルも含めたツアー期間中、これらの番組・イベントでは、体調不良による出演調整・キャンセルが相次いだ。
今だから言えるものの、欠席の知らせが飛び込むたび、私の脳裏には、否が応でも『中止』の2文字がよぎってしまったものだ。そこで本項では、ツアー期間中のアクシデントのうち、2人が“生出演”する予定だったものに限って抜粋し、紹介してみようと思う。

【表①】 harmoe 2nd LIVE TOUR 開催までの経緯

筆者作成

※ 表の見方は、左から順に
  日付/予定されていたイベント/出演者 と読む
※ WEBラジオなど収録番組については、
  収録日が不明の為リストから除外した


WEST公演以前で目立つのは、小泉さんに関する『発声を控える形での出演』の一文だ。この時期の小泉さんには“嗄声”の症状が認められ、医師から声を出すことを禁止されていた。そのため、出演したイベントにて彼女は、声の代わりにジェスチャーやスケッチブック、タブレット端末等を駆使してコミュニケーションを取っていた。文字面・絵面だけを見るとコミカルだが、“ライブ直前に発声が許されない”ことの深刻さは想像に難くないだろう。なぜなら、ライブ直前といえば、リハーサルやゲネプロを通じて公演の細部を詰めていく時期だから。結果的にWEST公演は無事に開催されたものの、ブラッシュアップに充てる時間は、1stと比べても確実に少なかったハズだ。

さ-せい 【嗄声
声帯に病変があるため音声が異常な状態。しわがれ声・かすれ声などの状態

(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%97%84%E5%A3%B0/)


また“不運”は、WEST公演からEAST公演にかけても止まらなかった。むしろ、『くままま』では小泉さん・『サイン会』では岩田さんが、それぞれ体調不良のためにイベントを欠席している。これまでは──形式を変えながらではあるが──出来ていたことが出来なくなったのだから、事態の深刻さは火を見るよりも明らかだ。もちろん、大事を取っての欠席という可能性もあるだろう。だが、いずれにせよ、WEST公演と同様にEAST公演も、開催までに幾つもの障壁があったことには違いない。

このように、『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、2人の体調不良、ないし“ライブ中止の危機”を乗り越えて千秋楽を迎えた。これは、言い換えれば、“開催が危ぶまれた”という予期せぬ“現実”の要素が、ライブという“空想”の文脈に盛り込まれた瞬間でもあったのである。

 

2/n: 『Villans:impress』の特異性
2つ目の“現実”は、ミニアルバム『Villans:impress』、そのコンセプトだ。
『Villans:impress』といえば、本ツアーの一翼を担った作品で、“様々なおとぎ話の「Villans」をモチーフに”することをテーマに掲げている。

これまでにない作風は、我々に強烈な印象を与えた。前述した、公式による『善と悪の物語』のアナウンスも相まって、“本作の醍醐味=敵役(ヴィランズ)目線”という共通認識は揺るぎなくなったと言って良い。確かに、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖がこれまでに表現してきたのは“おとぎ話の物語”──抽象化された世界そのもの──止まりだったから、そこから一歩踏み込んだのは大きな転機だったといえるだろう。だが、本項の問題はあくまでコンセプトのどこが現実的なのかだ。
このままでは、いまいちピンと来ないだろう。というのも、“新鮮さ”と“現実性”の関係は、別に等式にはなり得ないからだ。注目すべきは、もっと根本的な所にある。

つまり、『Villans:impress』のコンセプトが現実的な理由は、本作において𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は、曲毎に特定の役を演じているからなのである。

M1.QUEEN
不思議の国のアリス」ハートの女王

M2.Brilliant and bad
「ダルメシアン 100と1ぴきの犬の物語」クルエラ

M3.アンチクライアント
「アラジンと魔法のランプ」ジャファー

M4.眠れぬ森
「眠れる森の美女」マレフィセント

M5.VOICE
「人魚姫」アースラ

M6.Unfair Mirror
「白雪姫」女王

(https://harmoe.jp/disco/impress_canime/)


‥‥「演じるならむしろ非現実では?」
という疑問はごもっとも。例によって、順番に話していこう。

前述したように、“敵役目線の楽曲を歌う”とは、“曲中でその役を演じる”こととほぼ同義だ。これは、感覚としては、アニメのキャラクターによる挿入歌に近い。挿入歌といえば、俳優というよりむしろ、俳優の演じるキャラクターが曲を歌っているイメージだろう。同じことが、『Villans:impress』でも行われていたのだ。『QUEEN』ならハートの女王・『Brilliant and bad』ならクルエラというように、本作の楽曲はキャラクターソングとしての性質が強いのである。
ここで肝心なのは、これらの楽曲を“客前で披露する”とき、演者は歌声に加えて全身をも用いてキャラクターを表現するということ。特に強調したいのは、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖のふたりの、鬼気迫るまでの“表情の作り込み”だ。

たとえば『VOICE』における、岩田さんの悲痛を背負った微笑み。「広い海原と束縛はもううんざりなの」と手枷を断ち切るときの、腕と頬の強張り。また、それを見つめる小泉さんの不敵な眼差し‥‥。他にも挙げればきりがない。これらはすべて、ふたりが生粋の『舞台人』であるからこそ実現した表現と言えるだろう。


そして、この岩田さんの“悲痛な笑み”を見たとき、私は舞台『Collar×Malice -白石景之編-(悲恋エンド)』のラスト──最も悲劇的な形で、最愛の人物に運命を委ねる主人公・星野市香の姿──が脳裏をよぎってしまった(ポストの画像3枚目)。


必ずしも同一作品ではないだろうが、貴方にもよく似た瞬間があったのではないだろうか。“あのときの舞台・作品のキャラが、今回のライブに生きている感覚”だ。
言い換えれば、“演じる”という行為によって、これまでふたりが蓄積してきた経験が、ステージにフィードバックされていたのである。つまり、『GOOD and EVIL』は、演者にとっては“現実の経験値”が反映されたライブ。観客にとっては“現実の記憶”が呼び起こされたライブだったのだ。

 

このように、2ndツアーでは、他の何も差し込む余地のなかった“数珠繋ぎの空想”に、“現実”の要素が持ち込まれていた。個々の要素は、取るに足らない砂漠の一粒に過ぎないかもしれない。だが──虹の7色がグラデーションから成るように・蝶の羽ばたきが竜巻を起こすように──革新はいつも、些細な変化の積み重ねなのだ。実際、故意か偶然か、“現実”の要素を含んだ2ndツアーは、まったくの“作りもの”だった1stとは随分違って見えていたハズだ

 


閑話休題。話を戻そう。元々、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”と“今回のライブ”を比べたのは、“正確な踊り”と“パッション全開な踊り”が対等な理由を突きとめるためだった。これまでの話が無駄かというと、そうではない。むしろ、先の“空想と現実”の考え方を用いれば、いとも容易く疑問の回答を導けてしまうのだ。ここからは、方程式を解くように、問題の形を変えて考えてみよう。

1/2: “正確な踊り”
そもそも、“正確な踊り”とは、何に対して正確なのか。そう聞かれたとき、我々はもちろん“お手本”と答えるだろう。正確な踊りを目指す人にとって、ダンスの良し悪しは、振付師の動きにどれだけ近づけたかによって決まる。従って、彼等の“理想”は、お手本の完コピということになるだろう。
特筆すべきは、お手本とは、言い換えれば自分ではない誰かの“作りもの”だということだ。“作りもの”とは即ち“創作物・空想”だから、“正確な踊り”とは“空想に対して忠実な踊り”と言えるのである。

2/2: “パッション全開な踊り”
『パッション』とは、激しい感情もとい激情を意味する言葉だ。“パッション全開な踊り”を目指す人にとって、ダンスの良し悪しは、感情をどれだけストレートに表現できるかによって決まる。よって、これが全開なとき彼等は、昂る感情の赴くまま身体を動かしている──つまり、あるがままに踊っているのだ。
重要なのは、このときの感情は、りものではなく“元々自身に備わっていたもの”だということ。言い換えるとこれは、誰かの作りものではない、即ち“現実の感情”だから、“パッション全開な踊り”とは“現実に対して忠実な踊り”なのである

ここまで来たら、“正確さ”と“パッション”を比べる基準も見えてきたのではないだろうか。つまり、両者を対等たらしめる線引きとは、“空想と現実のどちらに忠実か?”。この条件において、“正確な踊り”と“パッション全開な踊り”は対等と言えるのだ

 

さて。紆余曲折を経たが、本項は、当初の疑問について一定の回答を出せたように思う。“Fiction and reality”“空想と現実”対をなす存在の両者だが、それは、ふたつが対等なことの裏返しなのだ。随分と長くなったが、本記事もこれにて〆とさせていただこう。

 

 

 

‥‥と言いたいところだが、ちょっと待って欲しい。

 

この記事の、本当の問題提起は何だったか?

 

“正確さとパッションが対等な理由”だったか?

 

‥‥いやいや、そんなことはない。

 

タイトルにもあるように、この記事が真に解き明かしたいのは、“harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」とは何の物語だったのか”だ。本節の冒頭で私は、「善悪は“手段”の1つに過ぎないのではないか」と書いたが、“空想と現実”さえも、とある目的を果たすための手段だとしたらどうだろう。

“現実”を話す際、本項では何度か「故意か偶然か」という枕詞を用いたが、果たして本当に、“現実”はたまたま持ち込まれたに過ぎないのだろうか?

 

‥‥結論から言うと、答えは“NO”だ。


🍎空想と現実。恋と愛。

画像は以下より引用
①『【harmoe】『きまぐれチクタック』Music Video Full ver.【1stシングル】』
②『【harmoe】『マイペースにマーメイド』Music Video Full ver.【2ndシングル】』
(下段の文章は筆者加筆)

https://youtu.be/Ze1LyBclEuM?si=YuktXygYxYyaO2AR
https://youtu.be/l9686I2-lxA?si=86BVZcS0hZa6n9jU

 

とはいえ。前節で触れた“現実”のうち、ひとつはあくまで不測の事態だった。もうひとつも、人によっては“単なる見え方の問題”に映ったかもしれない。確かに、現時点ではその見え方を否定出来ないし、少なくとも議論の余地は残るだろう。ただ、たとえふたつが偶然に過ぎなかったとしても、私は“現実=手段”の仮説を変えるつもりはないなぜなら、持ち込まれた要素は、なにもふたつだけではないからだ。“現実”の中には、明らかに意図的なものもあり、その一例と言えるのが、『Villans:impress』に収録された『アンチクライアント』、その歌詞である。

3/n: 『アンチクライアント』
この曲の“現実性”を語る上で重要なのは、“第四の壁”・“メタフィクション”の考えだ。
まず“第四の壁”とは、観客席(=現実)と舞台(=空想)の間に概念上存在する透明なカベのこと。原則的に、物語のキャラクターは、“壁”を隔てた観客を認識しない。だが稀に、彼等が我々の存在に気付いたり、あるいは話しかけてくることがある。古くはTVドラマ『古畑任三郎』の古畑任三郎・最近では『少女⭐︎歌劇 レヴュースタァライト』のキリン等がそれにあたる。

出典: 少女☆歌劇 レヴュースタァライト #12 「レヴュースタァライト

「私は今、画面の向こうの貴方に話しています」


とでも言うように、彼等は“こちら”に語りかけるのだ。そして、このように“第四の壁”が破られることを、現代では“メタフィクション”と呼ぶのである。ここまでを踏まえて、『アンチクライアント』が“メタフィクション”である理由を考えてみよう。“観客席”と“舞台”‥‥。それらを連想させるフレーズが無かっただろうか?

金曜日 すいてる映画館で観た
ヴィランズが与えてるメッセージ

アンチクライアント / harmoe


この一節から読み取れる内容はひとつしかない。すなわち、舞台の上でヴィランズを演じていたハズの𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が、客席(≒聴き手)側に腰掛けているのだ。先の定義に当てはめるなら、この歌詞は紛れもない“メタフィクション”だし、そこには明確な意図があると言えるのである。さらに言えば、ふたりが観客席に身を置いている以上、この歌詞も当然“現実的”ということになるわけだが──なればこそ、気になるのは𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が“現実”を盛り込んだ理由。必然も、偶然さえも巻き込んで舵を切ったその先には、一体何が待っているのだろうか


‥‥答えは驚くほど単純で、それは“次なる物語”だ。

 

前節で述べたように、1stツアーで映された“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go to the villans world”のフレーズは、ユニットの未来を占う指針だった。実際、告知以降、“敵役”をテーマに据えたミニアルバムがリリースされ、“善悪の物語”を謳った2ndツアーが敢行されたのだから、ライブにおける“アナウンス”は、彼女たちの“次なる物語”を暗示していると考えていい。すなわち、2ndツアーの最後に投影された一節、“With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”も、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の今後を象徴しているハズなのだ

With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE

harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」


ただ、1stと2ndでは大きく異なる部分がある。つまり、2ndツアーの文言は、前者と比べて明らかに“ライブとの結び付き”が強いのだ根拠となるのは、ミニアルバム『Villans:impress』のタイトルと、前述の“with “i””の部分である。

第一に、ヴィランズ』の正しい綴りは『villains』で、『Villans』ではない。本来あるハズの“i”は、アルバム名もとい1stツアーのアナウンスから綺麗に消えてしまっていたのだ。その後、失われた“i”がどうなったかというと、1stツアーから足がけ1年、2ndツアーの“フレーズ中の一単語”としてようやくの帰還を果たしたのだった。

ここまでを踏まえると、2ndツアーと𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これから”には連続性があると言えるだろう。そしてこれは、裏を返せば『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、“with "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”への橋渡しの役割を果たしていた──ライブの目的は、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“物語を繋ぐ”ことだったということになる。“善悪”も“現実”も、この目的を叶えるための手段だったのだ。


‥‥だが、これらの要素は、どうして“手段”たり得たのだろうか?

 

確かに、“善悪”や“現実”は手段であった。だが、手段とは道具のような物で、用途が分からなければ仕方ない。中世の農民にナイフとフォークを渡しても、彼等は食器を“鋭利な延べ板”くらいにしか思えないだろう。それと同じだ。手段を知るにはまず、“目的”を知らねばならないのである。そこで本項では、“With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”を読み解く所から始めようと思う。このフレーズの直訳は、こうだ。

“i”と共に、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖はLOVEを探しに行く


“look for A”は、“Aを探す”という意味の慣用句だが、問題はそこではない。現時点で私は、““i””と“LOVE”を訳さずに残している。理由はそれぞれ、““i””は、引用符(“”)で強調されているから・“LOVE”は、複数の意味を持つ多義語だから。言わば、たつの単語は、フレーズを理解するキーワードなのだ。ただし、逆に言えば、これらの訳を誤ると、解釈は明後日の方向に向かうということでもある。たとえば、以下に載せるのは、私の当初の勘違いだ。


愛と共に、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は愛を探しに行く


私は元々、「“LOVE”の意味は愛だろう‥‥“i”だけに」などと、“i”と“LOVE”を同一視していた。だが、これでは、“既に持っている愛を、わざわざもう一度探しに行く”という、奇妙な文が出来上がってしまう。従って、少なくともどちらか片方は誤訳。“愛”と読んではいけなかったのだ。

では、どちらを愛と訳すのかというと、答えは“LOVE”だ。もっと言えば“LOVE”には、よく似た言葉で“恋”の意味もあるが、ここでは絶対に“愛”を取らなくてはならない。それはなぜか?


1/2 : 恋と愛。
“LOVE”や“恋愛”の一言で片付けられることもあるくらい、恋と愛は混同されがちだ。確かに、誰かを好きという点で、両者が類似していることは間違いない。だが、似た者同士でありながら、わざわざ別の言葉が作られたのもまた事実。ふたつの間には、区別しなくてはならない“明確な違い”があるハズなのだ。まずは、それぞれの一般的な定義から押さえてみよう。

こい【恋】
特定の他人に強くひかれ、慕う気持ち(※)。

あい【愛】
① いつくしむ。かわいがる。
② たいせつにする。 ③ 惜しむ。

池田和臣, 山口明穂, 和田利政, 1960, 『国語辞典』旺文社.

※ 引用元には『特定の異性』と記載されていたが、
  ここでは『特定の他人』に改編してある。


正直、単体ではイマイチ違いが分からないだろう。
ここは一度視野を広げ、単語を用いた慣用句も見てみた方が良さそうだ。たとえば、恋ならば、“恋心を秘める”・“恋は盲目”。愛ならば、“愛を注ぐ”・“愛を込める”‥‥。

‥‥さて、今度はどうだろう。
違いが浮かび上がってきたのではないだろうか?

つまり、恋心を秘めるのは“心の内側”愛を注ぐ相手は、自分以外の誰か──すなわち“心の外側”にいる他人なのである。恋と愛では、“好意”という感情の矛先が、真逆を向いていたのだった。それだけではない。

恋は盲目とは、“恋をすると、人は周りが見えなくなる”という意味の言葉だ。これは、言い換えれば“恋をすると、人は自分が欲する情報しか取り入れなくなる”ということ。すなわち、彼等は不都合な事実を排除しているのである。良い部分だけを見て、悪い部分からは目を背けているのだから、恋には現実逃避の側面も認められるのだ。そして、現実から逃げた先にあるものはというと、それは自意識・ないし内宇宙。両者を一括りにした“空想の世界”だ

逆に、誰かを愛するとき、人は相手の良い部分も悪い部分も受け入れなくてはならない。それに、降りかかる不運や障壁さえも乗り越えなければならない。この意味で、愛とは極めて“現実的”な感情と言えるのだ


さて。これまで考えてきたのは、“LOVEの訳に相応しいのは恋か愛か”のハズだった。にもかかわらず、今や問題意識は、見飽きるほど出てきた二項対立にすり替わっている。すなわち、空想か現実か‥‥だ。『恋=空想, 愛=現実』として、With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”に代入すべきは、どちらの等式なのだろう?


2/2 : Love is a potion
この問題の鍵を握っているのは、やはり2023年10月11日発売の5thシングルだろう。
シングルの表題曲『Love is a potion』は、リリース以前、すなわち2ndツアーで先行披露された過去を持つ。アナウンスと同じ日に歌われた新曲は、いわばその“直系”ともいうべき存在。フレーズの意向を最も強く汲んでいるハズなのだ。
そこで本項では、『Love is a potion』の歌詞から、手がかりになる部分を探してみようと思う。

何回 騙されたり 傷ついても
話を キミが聞いてくれた

Love is a potion / harmoe

 

些細な毎日を 探検して ねぇ聞かせて

Love is a potion / harmoe


引用した歌詞には、彼女たちにとっての“LOVE”が凝縮されていると言っても過言ではない。順番に検討してみよう。まず、ひとつめの歌詞について。誰かに傷つけられたとき、その人が採り得る選択肢は以下のふたつだ。

A これ以上傷つかない為、自分の世界に閉じ籠る
B 痛みを受け入れ、この世界に留まる

Aが他ならぬ現実逃避であるように、選択肢はそれぞれ“空想”と“現実”に対応している。ここでは、実際にその状況に出くわしたとき、どちらを採るのが正しいのか‥‥なんて論じるつもりはない。ただ、少なくとも、この曲で𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が選んだのはB。つまり彼女たちは、“私とキミ”で支え合って、この世界に生きることに決めたのである。これは、続くふたつめの歌詞についても同じだ。

普段我々が遭遇する出来事は、必ずしも重大なことばかりではない。むしろ、生活は、小さな幸せと不幸せの連続で成り立っているのだ。劇的な毎日なんてものは、空想の世界にしか存在しないのである。そして、これを踏まえて歌詞を見ると、この曲で𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が身を置くのも、我々となんら変わらない“些細な毎日”。つまり、彼女たちはここでも現実を生きているのだ


以上、本項では恋と愛の違いと『Love is a potion』の歌詞を検討してきた。小括すると、“愛という感情”もとい『Love is a potion』の世界観は、どちらも現実的であった。この共通点ゆえに、With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”における『LOVE=愛』と結論づけられるのである。

『【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】』より引用

【harmoe】『Love is a potion』Music Video Full ver.【5thシングル】 - YouTube

ちなみに、これは余談だが、『Villans:impress』に収録された『Unfair Mirror』は、上の結論の説得力を逆説的に高めている。どういうことかというと、誰かを愛するとき、人は相手の良い部分も悪い部分も受け入れなくてはならなかった。これは、裏を返せば、“清濁併せ吞まないと、人は誰かを愛せない”ということでもある。では、この“誰か”のうち、我々にとって1番近しい存在は何者だろう?


恋人? 家族?‥‥残念ながら、どちらも外れだ。


種を明かすと、我々にとって最も身近な誰かとは、他ならぬ“自分自身”なのだ自分に対して出来ないことは、当然相手にも出来ない。ゆえに人は、“自分を受け入れなければ他人を愛せない”のだ。私が『Unfair Mirror』を引き合いに出した理由も、丁度ここにある。

本当の自分を見つめたら
初めてあなたを愛せるのかな

Unfair Mirror / harmoe


彼女(=女王)が見ているのは、鏡に映った自分。すなわち、ただの“虚像”でしかない。見たい部分だけを見て、それ以外からは目を背けているせいで、女王は“あなた”を愛せないのだ。


ということで、余談はここまで。
With "i", 𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖 will go look for LOVE”のLOVEが“愛”と訳されるなら、手前の“i”は一人称の意味で読むのが自然だろう。ただし、これまでの文脈的にも、“i”が引用符で強調されていることからも、それが普通の“私”でないことは明らかだ。直前で述べたように、他人を愛するにはまず、自分自身を受け入れなければならない。だからこそ、ここでいう“私”とは、良いも悪いも引っくるめた“ありのままの私”。そして、長らく検討を重ねた一文の訳はこうなるのだ。


ありのままの自分と、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は愛を探しに行く

 

前項にて、私は以下のように述べた。すなわち、“『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、次なる物語への橋渡しをしていた”。物語の全容が“愛を探す旅”と分かった今ならば、長らく謎だった、目的を叶える手段が“善悪”や“現実”だった理由にも説明がつく。

まず、繰り返しになるが、愛とは現実的な感情で、誰かを愛するとき、人は相手の良い部分も悪い部分も受け入れなくてはならなかった。ところが、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖がこれまで築いてきたのは、もっぱら“作りもの”・“空想だけの世界”。彼女たちはむしろ、それ以外を排除さえしていた。それゆえに、愛を表現しようと思ったとき、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は新たに“現実”の概念を取り込まなければならなかったのだ。

4-7/n=7: The others
だからこそ。もともと正確な踊りを得意としていた岩田さんは、動きに“パッション”を取り込んだ。ミニアルバム『Villans:impress』には、観客が過去の記憶を連想するよう、曲ごとに“特定の役”が設定された。中村彼方さんは、ふたりに善悪を教えるため、2ndツアーのテーマを“図書館”に据えた。空想だけの世界から飛び出すため、セットリストの冒頭に『空想エスケープ』の名を持つ曲を入れた。

‥‥そして、それらの象徴として、『GOOD and EVIL』を冠するライブが行われた。つまり、これまでのすべては繋がっていたのだ


さて、以上が“『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、愛を探す旅への橋渡しだった”ことに対する説明のすべてだ。途中、話題が何度も移り変わり、時には混乱を招く箇所もあっただろう。それでも最後まで読み進めて下さった貴方が、少しでも有意義な知見を得られていたのなら、筆者としてこんなに嬉しいことはない。このまま良ければ、エピローグまでお付き合い頂けると幸いである。


 


‥‥ただし、話はこれで終わりではない。




2ndツアーと𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これから”が繋がっていたように、実は、『GOOD and EVIL』と1stツアー『This is harmoe world』の間にも、れっきとした繋がりがあるのだ。証拠となるのは、1stツアーの中核をなしたアルバム『its a small world』だ。

世界中を旅しながら、
その地の童話に出会い、影響され、
表現していくharmoeならではの物語を
アルバムで表現します!

『harmoe 1stアルバム「It’s a small world」きゃにめ盤』
https://canime.jp/product/SCCG000000101/

harmoe公式X(@harmoe_official)より引用

https://x.com/harmoe_official/status/1510483830309748741?s=20


紹介文にもあるように、このアルバムのコンセプトは世界旅行だった。収録曲『一寸先は光』『セピアの虹』の歌詞を引用すると、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖が旅に出た理由は、“まだ見たことのない僕に会う”ため、ないし“自分に足りないものを探す”ため。つまり、この旅の目的は“自分探し”だったのだ。そして、これこそが、過去と未来を繋ぐ最後のピースに他ならないのである。今までの話はこうだった。

“誰かを愛するには、自分や他人の
ありのままを受け入れなければならない“。

他人と関わる時、相手は自分に、「揺るぎないその人らしさ」を求めてくる。この点において、人生は物語に等しいと言っていい。小説や物語の登場人物は、場面によって設定が変わってはいけない。なぜなら、設定が破綻したら読者を困惑させてしまうから。人生とて、それと同じなのだ。誰かと関わるにも、その時々で性格が変わる人とは接しづらいし、“自分らしさ”を持つ人には心も預けやすい。つまり、相手と深く関わるほど、誰かの人生の登場人物になるほど、自分を受け入れるという行為(=アイデンティティの形成)は必要不可欠なのだ。

ただ、愛の順序は“自分を受け入れること”が最初ではない。自分を受け入れるにはまず、そもそも受け入れる対象──“自分自身”を見つけ出さなくてはならないのだ。

図① 人が誰かを愛するまでに踏む過程
筆者作成

 

すなわち“自分探し”とは、他人を愛する上で最初に通らなければならない洗礼。だからこそ𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖は、自分探しの世界旅行に出て、善悪の図書館へと招かれたのである。つまり、『harmoe 2nd LIVE TOUR「GOOD and EVIL」』は、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の過去と現在、そして未来を繋ぐための物語だったのだ。

──“Love is a fiction, but love is a reality!
──空想の恋と、現実の愛!

 

🍎Epilogue

ご挨拶が遅れました、ノットです。
まずは、ここまで読んで下さり誠にありがとうございました! いまエピローグを入力している時点で、総字数は17,000字。本当に長く書き過ぎたし、ライブから時間が空き過ぎちゃいました。この期に及んで感想とか、とっくに記憶は薄れてるだろうに‥‥我ながらちょっとどうかしてますね。まあいいや。

さて、このブログを書き始めた当時。最初の目標は、“皆さんに𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖を布教すること”でした。ルームメイトの諸兄はもちろん、差し出がましくも、本記事で𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖を初めて知った人が興味を持ってくれたら良いなと思ったのです。“𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖”って面白いフォントでしょ? ルームメイトって、クラスメイトみたいでしょ? それぞれに海より深い理由があるのですが、、まあ、これもいいか。詳しくは公式サイトを見て下さい。

そんでもって。一言で布教といっても簡単なことではなく。そのために今回とった方法というのが、私の観た2ndツアー・すなわち“現実を巻き込んだ物語”を、読者である貴方に追体験させることでした。途中、何度かポエム読まされたでしょ? あれ、私の自作です。秋は人を詩人にしますね。

‥‥しますよね? するんですよ。

とまあ、とにかく、書き進めるほどに目的はどんどん増えていきました。それぞれの意図がちょっとでも伝わってたら、書き手冥利につきます。嬉しい。そして何より、当初の目標が達成されてたら、私としてはここまで書いてきて良かったと報われます。以下に、𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖の“これまでのライブ”のセットリストを載せておくので、興味をもってくださった方は是非聴いてみてください。こちら、公式YouTubeチャンネルが作ってるものなので、どうかご安心くださいね。また、ユニットのオフィシャルファンクラブ『はるもえroom』のURLも貼っておきます。ファンクラブとだけあって会費はかかります(月額550円)が、魅力的なコンテンツが沢山供給されているので、併せて足を運んでみてください。加入して後悔はさせません‥‥なぜなら、万が一後悔させたら、そのときは私が会費を奢るからです。

 

youtube.com

youtube.com

harmoe-fc.jp


最後に、本記事を書く上で沢山の助言をくださったAさん・Pさん・Sさん・Yさん。主観と我儘だらけの相談に乗ってくださり、どうもありがとうございました! この場を借りてお礼申し上げます。

 


ノット

【感想】太陽の季節。Aqoursにはじめて会った夏【Aqoursぬまづフェス】

 
 
こんにちは、ノットです!
 
先日、『輝け! Aqoursぬまづフェスティバル in よみうりランド』に行ってきました。体験したすべての出来事が楽しくて、“一生忘れない1日”を過ごさせて貰いました。
 
今回は、そんな 『Aqoursぬまづフェス』の感想を綴らせていただきます。よろしくお願いします🙌
 
※ 画像は、公式HPより引用
 
正直に言うと、私は元々、当イベントに行く予定はありませんでした。参加を決めたキッカケは、ある方が書かれたブログです。
 
ブログはとても面白く、何より、誠実な語り口に好感が持てました。Twitterにて、私は、この記事の感想を引用RTしました。
 

 
こんなツイートをした手前、引くに引けなくなった……というのも、動機としては大きかったと思います。
 
もちろん、嫌だったわけではありません。私がいくらオタクとはいえ、興味のない物に7000円も払いません。とはいえ、義務感が全く無かったと言うと、それもウソになるでしょう。
 
参加前の私は、「仕事無いし、行ってもいいかな?」くらいの考えでいました。会話のネタにもなるし……みたいな。
 
ただ、結果としていま筆を執っているのだから、『Aqoursぬまづフェス』は、私の中の前評判を覆したということでもあります。
 
……いや、すげぇ良かったんすよ、本当。
 
 

初上陸!よみうりランド

 
5月22日、日曜日。多摩(らへん)。
 
そこには、予報はずれの晴れ空が広がっていました。いつもよりも濃く、深い青空は、見る者に新しい季節の訪れを感じさせます。電車を降り、最初に目に止まった景色がこれです。

 

※ 撮影: iPhoneSE 第一世代(無加工)

 
夏色の空があまりに綺麗で、私は、連番者さんを待たせているにもかかわらず、思わずシャッターを切ってしまいました。
 
このとき、時刻は9時50分。開演まではまだ余裕がありました。そのため、私は、お気に入りの1枚を収めてからも、手に持ったスマホをあちこちに向けて歩いていました。
 
京王よみうりランド駅の入口を、パシャリ。
 
逆光で暗くなった看板も、パシャリ。
 

※ 撮影: iPhoneSE 第一世代(無加工)

 
アングル調整のために立膝をすると、日差しを吸収したアスファルトが、既に熱を帯び始めていました。半月板には小石が喰い込み、赤紫色の跡が残ります。この日の私は、白シャツに短パンという出で立ちでした。
 
ポッケから伸びる充電ケーブルを払いのけ、型落ちスマホを構える姿は、なんとも滑稽だったでしょう。子連れの家族の目線が若干刺さりましたが、そんなのを今さら気にしていたら、オタクなんて出来ません。私は、動きやすい格好してきて良かった……などと、呑気なことを考えていました。
 
ですが、写真を一通り撮り終え、進行方向に振り向くと、私は絶句しました。目の前に山しかないのです。それは、“山のようにそびえ立つビル”ではない、本物の“丘陵”でした。まさか、東京でビル以外の「山」を拝む日が来るとは、夢にも思いませんでした。
 
 
(……よみうりランドは何処に?)
 
 
視界に映る景色には、遊園地要素のカケラもありません。状況を確認しなければならない。私は、一度しまったスマホを慌ただしく取り出しました。蒸れた汗が、背中を伝うのを感じました。

 

※ 画像は、公式HPより引用

 
京王よみうりランド駅」と「よみうりランド」の間には、約1.5kmの距離があります。遊園地へ行くには、徒歩であれば20分、直通のロープウェイを使っても、10分くらいの時間を要しました。ところが、アクセスをろくすっぽ調べずに来た私は、この所要時間を頭に入れていなかったのです。
 
 
(ヤバい! ヤバい!!)
 
 
焦った私は、大急ぎでロープウェイの往復券を購入しました。予想外に激しい昇降にビビりつつ、よみうりランド前に着いたのは10時過ぎ。開演まで、あと何分もありません。挨拶と謝罪もそこそこに、私と連番者さんは、早歩きで会場に向かいました。それでも、最終的に、足を踏み入れた時には滑り込みアウト。丁度、イベントが始まったところでした。
 
待たせた挙句、開演にも間に合わないなんて不覚の極みです。連番を組んで下さったセンケイさんさん、その節は本当に申し訳ありませんでした、、
 
 

体験する物語って、何だ?

 
なかば飛び入りのような形で、『Aqoursぬまづフェス』に参加した私。前情報といえば、先のブログで拝読した内容がすべてで、これから「体験する物語」がどんなものなのか、いまいちピンと来ていませんでした。
 
ですが、そんなそそっかしいオタクでも心配無用。イベントの冒頭に、浦の星女学院の生徒さんが、1日の流れを説明してくれました。当記事でも、概要をまとめておきましょう。
 
Aqoursぬまづフェス 概要】
 
“東京で沼津の魅力を表現する夢のフェスを作ろうとするも、人手が足りず実現が困難となってしまったAqoursは、助けを求めます。その呼びかけに応え、あなたは「助っ人さん」としてAqoursと一緒にフェスを作る決意をします──”
(公式HPより引用)
 
【当日のタイムテーブル】
 
①開催地へと赴き、
「助っ人さん」として、
フェスの準備をお手伝いする。
(約60分)
②自分や、他の「助っ人さん」
たちが作ったフェスに
自分たちで参加する。
(約55分)
③フェスの締め括りには、
千歌たちAqoursによる
特別ライブが行われる
(約30分)
 
Aqoursぬまづフェス』は、ランド内の芝生広場を丸ごと貸し切って行う一大イベントです。広場の各地には、『ヨキソバキッチン』や『ぬまづ富士山神輿(みこし)』、『各種展示』など、沼津の魅力を届けるブースが設置されています。けれども、あなたもご存知のように、浦の星女学院は、“生徒数が100人にも満たない、小さな高校”です。人手不足のため、どこも準備が滞ってしまっていたのでした。
 
 
「このままじゃヨキソバが作れないの!」
 
 
「おみこしが完成していないの!」
 
 
ブースからは、浦女の生徒たちの切実な叫びが聞こえてきます。私たち「助っ人さん」の役目は、そんな彼女たちの要請に応じて、「◯◯を手伝ってください!」というミッションをこなしていくことです。
 
もちろん、依頼の内容はそれぞれ異なります。ですが、いずれにおいても、なにか特別な技術を要求されることはありません。例えば、おみこしを作成するのに、トンカチやドライバーは使いませんし、ヨキソバを作るといっても、「助っ人さん」が料理をすることはないので、ご安心を。
 
むしろ、ここで特筆すべきは、ミッションがどれも「沼津を前面に出したもの」だということです。ミッションに取り組むうち、私は、『Aqoursぬまづフェス』が、Aqoursはもとより、“沼津を愛する人たちのためのイベント”である……という印象を受けました。
 
 
前述の通り、依頼をこなす上で、DIYや料理といった、専門的なスキルは要りません。ミッションはあくまでゲーム形式で、楽しみながら・遊びながら出来るものが揃っています。ゲームの一例を紹介しましょう。
 
 
『ヨキソバキッチン』
… ヨキソバの食材の「仕分け」。
 
『ぬまづ富士山神輿』
… 富士山をかたどったおみこしに、
 青色のシールを「貼り付ける」。
 
 

このとき、仕分ける食材はモチロン沼津産ですし、富士山といえば、沼津どころか静岡県の象徴です。このように、各ミッションには、沼津の要素がふんだんに盛り込まれています。極めつけは、『展示ブース』における、沼津のオススメスポット紹介です。

 

出典: 江本典隆 (@jtbpub_chubu)さんのTwitterより引用

 
壁面の地図には、「助っ人さん」選りすぐりの観光地が貼り出されています。ここでは、アニメに登場した、いわゆる聖地はもちろん、それ以外にも、幾つもの名所が紹介されています。沼津港にある海鮮料理の名店や、ピークタイムを外せば、すんなり入れる(こともある)「さわやか沼津学園通り店」。沼津駅北口から送迎バスが出ていて、永遠に時間を過ごせてしまう巨大銭湯「万葉の湯」……など、名所には枚挙に暇がありません。
 
中には、私が知らなかった場所も多くあり、水深日本一(2,500m)を誇る駿河湾の如き、沼津の底知れぬ魅力を思い知らされます。また、狩野川の花火大会の成功祈願なんかもあって、見たときには、思わず涙腺が緩んじゃいました。直筆なのがまた良いですね。無数に貼られた付箋は、さながら沼津愛を競い合うかのようでした。

 

 

(フェスを作るって、こういうことなんだ、、)

 

何も知らなかった私は、この圧巻の光景を目にしたことで、イベントの趣旨──すなわち、「体験する物語」の何たるかを理解したのです。そして、あっという間に準備時間は終わり、一同が見守る中、広場にフラッグが掲げられました。

 
Aqoursぬまづフェスを開催します!」
 
 
浦女の生徒の掛け声とともに、『Aqoursぬまづフェス』は、盛大に幕を開けたのでした。
 
 

太陽の季節Aqoursに初めて会った夏

 
太陽が、青空の一番高くまで昇ったころ。『Aqoursぬまづフェス』は、いよいよ本番を迎えました。かんかん照りの日光が、地肌をジリジリと焦がします。自分の前腕を掴むと、白い手形がクッキリ残りました。夏のはじまりです。
 

前述の通り、フェスの本番が始まると、自分たちが「作った」ブースは、自分たちが「参加する」ブースに変貌します。例えば、食材を仕分けた『ヨキソバ』は、調理がなされ、実際にいただけるようになっています。富士山のおみこしも、力我慢の「助っ人さん」たちが担ぐのです。

 
その他にも、会場では、沼津に関する知識を競うクイズ大会「沼津王決定戦」や、輪になって『サンシャインぴっかぴか音頭』を踊る「盆踊り」等、複数の行事が同時進行しています。まさに「夢のフェス」に相応しい、お祭り騒ぎが繰り広げられているのです。
 
もっとも、ここまで聞くと、フェスは「賑やかな場所が好きな人」向けのイベントに見えるかもしれません。きっと、こう思われる方もいるでしょう。「普段、こういった“まつりごと”に参加しない人は、フェスに行っても楽しくないのではないか?」「場違い感を感じるのではないか?」。
 
当然ながら、皆が皆、「賑やかな場所」が好き…なんてことはありません。もちろん、喧騒をきらう人はいます。そうでなくても、自分の感情をさらけ出したり、はっちゃけるのが苦手な人も少なからずいるでしょう。もしかしたら、それが理由で、フェスへの参加をためらう方もいるかもしれません。少なくとも、私にはその節がありました。
 
ですが、蓋を開けてみたら、心配は杞憂に終わりました。何故なら、皆も同じ気持ちと気付いたからです。それは、Aqoursちゃんとて例外ではなく、かつて、楽曲『Pops heartで踊るんだもん!』で、彼女たちは、こんなことを歌っていました。
 
人みしりでも大丈夫さ
おなじだよ 実はかなり shy heart! So, too shy my heart!
そんなの忘れちゃうくらいに
ずっと今夜は騒ぎたいな
Pops heartで踊るんだもん!/Aqours
 
千歌たちでさえ人みしりなのですから、況やオタクをやでしょう。それに、同じなのは、人見知りだけではありません。私と他の「助っ人さん」──もとい、私とあなたは、Aqoursちゃんが大好きな同士なのです。
 
確かに、『Aqoursぬまづフェス』のコンセプトは、「東京の人に沼津の魅力を伝える夢のフェス」です。ですが、フェスは同時に、不器用なくらい全力でAqoursちゃんと沼津を想い続けた、「僕らの、僕らによる僕らのためのイベント」でもあります。言ってしまえば、『Aqoursぬまづフェス』は、大好きを爆発させにきた者たちの集まりなのです。アニメはさておき、アニメの舞台への造詣の深さを競ってる時点で既にヤバいのです(褒め言葉)。気持ちは皆同じなのだから、恥ずかしがることはありません。
 
とはいえ、こういったイベントに不慣れな人の中には、「どう盛り上がればいいか分からない」なんて悩む方もいるでしょう。
 
 
 
(人目を気にする必要はない…)
 
 
 
(参加すれば楽しいのも分かる…)
 
 
 
 
(分かってはいるんだけど……)
 
 
 
かく言う私も、最初の一歩が踏み出せませんでした。フェスの中盤、会場内のミニステージでは、おみこしを囲んで「盆踊り大会」が開催されていました。踊りの曲目は、2ndライブでの披露が印象的な『サンシャインぴっかぴか音頭』です。
 
法被を着たオタクたちが一堂に集う光景は、初めて参加した埼玉公演の記憶を、否が応でも思い出させます。そういえば、当時も照れくさくなって、ちゃんと踊ることが出来ませんでした。頭では楽しいと分かっているのに、どうしても萎縮してしまったのです。あとで後悔するのに。実際、後悔したのに。それにもかかわらず、前回同様、私は二の足を踏んでいました。ですが、そんな様子を見かねてか、浦女の生徒のひとりが、私に声をかけてきたのです。

 

「お兄さん、おいでよ! 絶対楽しいよ?」

 
彼女は、顔中いっぱいに笑顔を浮かべていました。
 
 
「後悔しちゃうよ?」
 
 
彼女の眼には、あの日千歌たちに見た輝きがありました。瞳には、「瑞々しさ」と、前だけを見つめる「ひたむきさ」が宿っていました。その立ち姿は、紛れもない「浦の星女学院の生徒」でした。彼女は、かつて千歌たちが「僕ら」にしてくれたのと同じように、躊躇う私に手を差し伸べてくれたのです。
 
 
(……ああ、今なんだ)
 
 
 
(今が、君と僕とで、進む時なんだ!)
 
 
 

嬉しい気持ちが、湧き上がって弾けるのを感じました。動き出さずにはいられません。連番者さんも巻き込んで、私はついに、盆踊りに参加することにしました。あまりに夢中過ぎて、振付けがどうとか、正しく踊れていたのかとか、細かいことは覚えていません。ですが、ただひたすらに楽しくて、幸せでした。気付けば私は、おみこしの前に置かれたミカン箱の上で、両腕をブンブン振り回していました。

さて、こういった出来事もあり、今回のイベントでは特に、「浦の星女学院の生徒」たちが印象に残っています。底抜けに明るい立ち振る舞いは、アニメからそのまま飛び出したかのようでした。それどころか、現実の沼津の雰囲気さえ纏っていたように思います。彼女たちはきっと、東京より少しだけ穏やかに流れる時間の中で生きてきたのでしょう。それを最も強く感じたのは、生徒たちと千歌たちの、息の合った掛け合いでした。
 
Aqoursぬまづフェス』には、私たち「助っ人さん」と「浦の星女学院の生徒」に加え、Aqoursのメンバーも参加しています。イベントの最中、彼女たちは、沼津の「あるあるネタ」やスペシャルライブを披露してくれるのですが、あくまでもその姿は、イラストもとい3DCG。前者こそ、新規の立ち絵が描き下ろされていましたが、3DCGに関しては、スクスタのモデルがそのまま使われていました。もちろん、ハイテク技術で飛び出して見えたり、ヒーローショーみたいに着ぐるみが練り歩くこともありません。身も蓋もない言い方をすれば、作り物に過ぎないのです。ですが、今回のイベントでは、本来なら「作り物」であるはずの千歌たちが、まるで実在の人物であるように感じられました。否、本当に千歌たちがいたのです。
 
そのままでは、千歌たちAqoursは「画面の向こうの存在」でしかなかったでしょう。2次元と3次元の間には、原則的に突破不可能な壁があるからです。ところが、「浦の星女学院の生徒」たちは、この壁を越え、「次元の隔たり」の橋渡し役を担ってしまったのです。
 
互いを下の名前で呼び合う両者は、仲睦まじげな雰囲気を醸し出します。種類豊富に録られた台詞によって、会話のキャッチボールも、極めて自然に成立していました。ただ、それ以上にAqoursの存在を実感できた要因と言えば、やはり「浦の星女学院の生徒」の、聖地・沼津の雰囲気をも纏った言動です。元々は、Aqoursと同様アニメの住人に過ぎない彼女たちが、確かに目の前に立っていたからこそ、その延長線上にいる千歌たちのことも、実在の人物と感じられたのだと思います。
 
浦女の生徒を通じて、花丸の口から「沼津グルメあるある」を聞いたとき、笑うと同時に、胸が不思議と熱くなりました。「『どんぐり』さんで注文した料理は、初見だとどう取ればいいか分からない」……。
 
 
や、マルちゃん。マジでそれなのよ。
 
 
今回のイベントで、最も感動的な瞬間でした。立役者のみんなに、心からお礼を言わせて下さい。浦女の皆さん、Aqoursに出逢わせてくれて、本当にありがとうございました!
 
 
 

おわりに

 
いかがだったでしょうか?
かなり駆け足気味ではありますが、自分が感動した場面を中心に、フェスの感想を綴らせて頂きました。とはいえ、この文章を書いているのは、6月4日の午前2時過ぎ。5日に千秋楽を迎えるイベントの感想としては、あまりに遅すぎると言わざるを得ません。もっと早ければ良かったのにと、自分でも思います。すみません、、
 
ただ、大遅刻を承知のうえで、私がここまで筆を執ったのは、『Aqoursぬまづフェス』というイベントが、変わりゆく沼津の「イマ」を伝えるために考案されたイベントだからです。寄せては返す波に同じモノなど無いように、今年の夏は去年とは違います。先日も、仲見世商店街の「マルサン書店」さんが、5月31日を以て、惜しまれつつも営業を終了しました。少しずつですが、沼津は変わってきています。そして、それと同じように、私自身の心の在り方も、日々変わり続けているのです。
 
ひょっとしたら、いつか自分は、今とは全然違う考え方を持つようになるかもしれません。遠い未来、「あの日の自分は、どうしてこんなことをしていたのだろう?」と、忘れてしまう日が来るかもしれません。だからこそ、今、自分が素晴らしいと感じたことを書き留めておきたい。この感動に名前をつけてやりたい。言葉さえ残しておけば、それはいつしか足跡となって、軌跡をいつでも辿れるようになると思ったのです。
 
イマ、Aqoursちゃんを愛する気持ちを形にしたい。そんな気持ちにしてくれる『Aqoursぬまづフェス』なのでした。
 
 

※ 撮影: iPhoneSE 第一世代(無加工) 

 

 

ノット

舞台『王妃の帰還』が最高過ぎたので、皆に魅力を伝えたい!



※ 本ブログは、舞台『王妃の帰還』の感想記事です。舞台・原作の若干のネタバレを含みますので、閲覧の際はご注意ください ※


1.
思いがけない出逢いがあった。
先日、“人生の一本”というべき舞台を観たのだ。

 

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JR新橋駅の北改札を出、銀座に向かって高架橋の沿道を進むと、『博品館劇場』という建物がある。おもちゃ店が併設するビルの8階、エレベーターを上った先の劇場で鑑賞した舞台は、題名を『王妃の帰還』といった。
たまたま、職場から近かったから。
たまたま、知っている役者が出ていたから。
そんな、出来心にも似た好奇心で足を運んだシアターで、私は、魂が沸き立つような舞台体験をしてしまった。偶然を手繰り寄せた先の邂逅を運命というなら、私が『王妃の帰還』を観たのもきっと、運命なのだろう。あの日の感動をいつでも思い出せるよう、私は夢中でペンを走らせている。


思いがけない出逢いがあった。

 

2.
『王妃の帰還』は、2022年3月20日から27日にかけて上演された、『少女文學演劇』の第二弾にあたる作品だ。『少女文學演劇』とは、文字通り少女文学を舞台化するプロジェクトで、今作は、柚木麻子先生の同名小説を原作としている。SNSをはじめ、作品は多くの観客から高評価を獲得し、千穐楽では舞台の後日配信を行うことが発表された。そんな物語のあらすじは、こうだ。

【あらすじ】
私立の女子校中等部2年生の前原範子(=ノリスケ/岩田陽葵)はクラスでは目立たない存在だけど、親友の遠藤千代子(=チヨジ/伊藤純奈)や気の合う仲間と〈地味グループ〉の一員として楽しく学校生活を送っていた。

そんな日常の中、クラスに突如巻き起こる「腕時計事件」!!
この事件をきっかけに、クラスのトップ〈姫グループ〉のリーダーとして君臨していた滝沢美姫(=王妃/上西 恵)は、その座を追われることとなる。

密かに王妃に憧れていたノリスケは、チヨジと力を合わせ、王妃を元のグループに戻そうと「プリンセス帰還作戦」を決行!
しかし、王妃の親友だった村上恵理菜(=エリナ/佐藤日向)があの手この手で作戦を阻止し、クラスの他のグループ〈ゴスロリ軍団〉や〈ギャルズ〉、〈チームマリア〉も巻き込んで、さながらフランス革命下剋上の様相に———。

クラスは元の平和を取り戻せるのか…?
はたしてノリスケと王妃のグループを飛び越えた友情は成立するのか…?

出典: https://shojo-bungaku.com

 

あらすじを一言でまとめると、「スクールカースト最下層の地味子たちが、失墜したかつてのトップを迎え入れ、彼女が元の居場所に帰れるよう奮闘する話」だ。以下に、主要人物のプロフィールを簡単にまとめる。

【地味グループ】
前原範子 [岩田陽葵]
愛称はノリスケ。物語の主人公で、狂言回しを務める。
引っ込み思案だけど、他人を思いやれる性格の持ち主。

遠藤千代子 [伊藤純奈]
愛称はチヨジ。ノリスケの一番の親友で、2人は家族ぐるみの付き合い。
その場の空気を正しく読み、上手に立ち回る「面白い人」キャラ。

鈴木玲子 [小嶋紗里]
愛称はスーさん。ノリスケたちが通う『聖鏡女学園』の理事を父に持つ。
グループ一の常識人で、何事にも動じない度胸がある。

リンダ・ハルストレム [長谷川里桃]
愛称はリンダさん。スウェーデン人の父と日本人の母のハーフ。
普段は大人しいが、悪口を言う時だけは別人みたいに生き生きしている。


【ギャルズ】
安藤晶子 [清水らら]
女子力が高く、新しいものが好き。常にクラスの二番手に甘んじている。
滝沢美姫による狂言窃盗『腕時計事件』では、犯人に仕立て上げられた。

【チームマリア】
伊集院詩子 [倉持聖菜]
お淑やかな優等生で、クラスの学級委員。さらさらのロングヘアが特徴。
クラスの風紀が乱れるのを嫌い、校則違反を厳しく取り締まる。

【ゴス軍団】
黒崎沙織 [後藤早紀]
ビジュアル系バンドやゴスロリを愛する。『腕時計事件』の告発者。
他のグループには冷淡な態度を取るが、内心では身分階級に疑問を抱いている。

【姫グループ】
滝沢美姫 [上西 恵]
愛称は王妃。絶世の美貌と我儘な性格の持ち主。
クラスのトップに君臨する勝ち組グループのリーダーだったが、
自らが首謀した『腕時計事件』がきっかけで、グループを追放される。

村上恵理菜 [佐藤日向]
姫グループのNo.2。王妃に負けず劣らずの、中学生離れした容姿をしている。
利口そうな佇まいとは裏腹に、腹黒い魂胆を隠し持っている。

参考: 柚木麻子(2015)『王妃の帰還』,  株式会社実業之日本社

 

中学生といえば、芽生え始めた自我に困惑し、自分の心すら満足に操れない、多くの人にとって“人生で最も多感な年頃”だ。この作品は、そんな“年頃の女の子”たちの危うさを、グロテスクなまでに生々しく描いている。例えばあるキャラは、気が利かず、思ったことをズケズケ言って他人を傷付けてしまうし、またあるキャラは、気に食わないクラスメイトを容赦なくハブったりする。カーストの変動なんてしょっちゅうだ。悪目立ちすると、即刻、イジメの対象になってしまうのである。なんというえげつなさ。そこには、河原の土手で殴り合って、大の字に寝そべって仲直り…みたいな単純さは、基本的に存在しない。

下層出身の主人公『ノリスケ』は、常に周囲の顔色を伺い、浮いてしまわないよう努めている。だが、『プリンセス帰還作戦』の最中、彼女はそんな身分階級に嫌気が差し、上下関係をぶち壊そうと、ジャンヌダルクさながらに立ち上がることになる。学校という閉鎖された社会で、弱者が、特権階級の悪女に立ち向かう『ピカレスク』的な物語は、この作品の大きな魅力と言えるだろう。
ちなみに、『ピカレスク小説』は、16世紀のスペインで発生した後、17〜18世紀にはフランス・ドイツでも普及してゆく。そして、『ノリスケ』は、世界史の──とりわけ、17〜18世紀のフランス、マリーアントワネットの時代をこよなく愛する歴史オタクだ。このように、フランス革命を模して書かれた本作は、身分階級といいピカレスクといい、当時の世情を巧みに盛り込んでいる。個々の要素を咀嚼し、現代風にアレンジする原作者・脚本家の手腕に、私は舌を巻いてしまった。

なお、『少女文學演劇』と銘打っているだけあり、『王妃の帰還』は、登場人物全員が女性キャストで固められている。このキャスティングは、人間模様のリアリティ・説得力向上に一役買っているのだが、もしかしたら、中には、こう思われる方もいるかもしれない。「女の子あるあるばかりで、男が観ても楽しいの?」。
気持ちは分かるが、どうか安心頂きたい。コレを書いている私は男だ。しかも、オタクだ。女心はおろか、眉の整え方も、服の選び方さえも分からない。それでも、この作品は、私にとっての“人生ベスト”に変わりないのである。

先のピカレスク的な要素に加えて、彼女たちの危うさは、中学生という年代そのものの“多感さ”にも通じる。「うわ、えぐい!そこまでやるか!」と驚く場面は結構あるものの、それはあくまで行為の程度にびっくりしているのであって、行動原理そのものは単純な程純粋で、分かりやすい。男の私でも共感できる部分は多いのだ。
しかしながら、『王妃の帰還』を“人生ベスト”たらしめるもの──その要因は、ストーリーの明快さでも、キャラクターの分かりやすさだけでもない。それは、座長の岩田さんはじめ、キャストの皆さんの熱演と、彼女たちが扮するキャラクターの描かれ方である、と私は思っている。

 

3.
キャストの熱演を語る上で欠かせないのは、なんといってもノリスケ役の岩田陽葵さんの存在だろう。
岩田さん演じるノリスケは、引っ込み思案な所はあるが、他人の為に犠牲を払うことを厭わない、強い正義感を秘めた女の子だ。王妃が嫌がらせを受けた際には、彼女を身を挺して庇うなど、ノリスケの殊勝さは、物語を通して度々強調される。ただ、その一方で彼女は、他人の感情の機微・乙女心にはてんで疎く、劇中でも「恋する気持ちを分からないガキ」と評された。総じて、ノリスケは、健気さと幼さを併せ持った性格の持ち主と言えるだろう。
そんなノリスケというキャラクターを、岩田さんは、体全身で天真爛漫に表現されていた。華奢な身体を一杯に使って、舞台を駆け回る岩田さんの姿は、まさに純朴なノリスケそのもの。周りの出来事に対して、感情豊かに一喜一憂する様がとにかく可愛く、私の目は、岩田さんにしょっちゅう釘付けになっていた。特に、彼女がおさげを解く場面では、可愛さのあまり両目がハートの形になっていたかもしれない。『ギャル軍団』の内田さんが「超可愛いんですけど!」と話しかけた時、心の声が口をついて出たのかと思って、内心ちょっと焦ったくらいだ。

だが、岩田さんの演技の魅力は、愛くるしさだけに留まらない。私が印象に残っているのは、彼女が、スクールカーストの最上位『姫グループ』のNo.2・村上恵理菜に、敢然と立ち向かうシーンだ。
エリナこと村上恵理菜は、ノリスケたちの『プリンセス帰還作戦」を快く思っておらず、あの手この手で一行を妨害してくる。絶対的権威を持つエリナと真っ向からやり合っても勝ち目はなく、ノリスケたちは、長らく耐え忍ぶ戦いを余儀なくされていた。だが、イジメの矛先が仲間に向けられたことで、事態は急変。ついに堪忍袋の尾が切れたノリスケは、正面切ってエリナに食ってかかるのだった。

全部、全部、この女のせい──。こうなったら完膚なきまでに叩きのめしてやる。
出典: 柚木麻子(2015)『王妃の帰還』,  株式会社実業之日本社 p.223


この時の岩田さんの演技が、記憶に焼き付いて離れない。
今にも血涙を流さんばかりの、見開き、血走った瞳。過呼吸のように震える肩。爪を立てるかのごとく、きつく握りしめた拳。刺し違えてでも、この女をぶちのめす──そんな宿命を背負った立ち姿に、観客の私ですら、思わず慄き、たじろいでしまった。

引用文にもあるように、原作のこの場面では、ノリスケの激昂が荒々しい言葉で綴られている。緊迫感が切実に伝わる文章は素晴らしく、私は、ページをめくる手が止まらなかった。ただ、それを差し引いてなお感動したのは、岩田さんが、本文には無いノリスケの息遣いまで再現されていたことだ。文章には表現されていない筆者の真意を汲み取ることを、『行間を読む』と言うが、あの時の岩田さんは、まさしく行間に隠されたノリスケの人物像を汲み取っていたように思う。ただただ、圧倒的な迫力だった。

また、この“行間の表現”で言えば、チヨジ役の伊藤純奈さんの名演も印象的だ。

劇中にてノリスケは、無二の親友であるチヨジを、「その場の空気を正しく読み、上手に立ち回る」と評している。実際、彼女は中学生離れした聡明さの持ち主で、劇中ではグループの頭脳として大活躍した。何を隠そう、『プリンセス帰還作戦』の発案者も、彼女だ。
それ以外にも、チヨジはしばしば“周りがよく見える人物”として描かれる。だが、この優れた観察力は、実は繊細さの裏返しなのだ。

人より多くのことに気付き過ぎるチヨジは、言葉尻ひとつや、ふとした挙動からでさえ、自分が相手にどう思われているのかを感じ取ってしまう。いくら賢いとはいえ、彼女の精神は、まだまだ未熟だ。悪意を受け流す余裕などなく、むしろ、全てを真に受けてしまう。彼女はとても傷つきやすいのだ。
不幸なのは、チヨジ自身 “自分が落ち込んでいる姿を見せたら、皆に迷惑がかかる” のを理解していることだろう。長所であるはずの聡明さが、皮肉にも、彼女を無理に明るく振る舞わせてしまうのである。親友からすげない態度を取られても、表面上は平気そうに笑って見せ、裏でひとり、寂しさを抱え込むのだ……。
これ以上はネタバレになる為、割愛しよう。気になった方は是非、原作・舞台の後日配信をご覧頂ければ幸いである。

時に、チヨジ役の伊藤純奈さんは、そんな彼女の繊細さを、とても大切に演じられていた。特に印象的だったのは、逆境における、自分を鼓舞するような言葉づかいと、王妃に夢中なノリスケを見る時の憂いの表情だ。
前述の通り、チヨジは他人に弱さを見せない。彼女を演じた伊藤さんも、普段は気丈な態度を崩さないのだが、時々、表情が切り替わる間の一瞬だけ、ひどく悲しそうな顔をみせることがあった。彼女の性格柄、次の瞬間には元に戻っているのだけれど、失望や孤独、悲愴など、あらゆる負の感情が溶け込んだ面持ちは、さながら混ぜ過ぎた絵の具のよう。うつむき顔に影が落ちる、哀愁に満ちた佇まいが、サブリミナル的に、強烈に記憶に残っている。一見しただけでは見逃してしまいそうな部分まで、とにかく表現が行き届いているのだ。

ここには書ききれないが、その他のキャストについても、それぞれの形で “原作の行間” を演じられていた。皆さんとても素晴らしかったので、後日配信を視聴する際は、一人ひとりの一挙手一投足まで見逃さないようにしたい。

 

4.
既に述べてきたように、『王妃の帰還』に、“完璧な人間”は存在しない。敵役のエリナは勿論、主人公のノリスケやチヨジでさえ、弱さや欠点だらけの不完全な人間だ。各々に未熟さがあり、それゆえに彼女たちは、何度もぶつかり、傷つけ合う。その様はまるで、血で血を洗う革命のようだ。彼女たちの抱える複雑な感情は、お世辞にも綺麗とは言い難く、むしろ醜い部分も少なくない。でも、それは、観客の私たちとて同じなのだ。
この舞台の素晴らしさは、そんな誰しもが持つ“醜さ”を、あるがままに、愛おしいものとして描いたことである。

冒頭で述べた通り、この作品は、年頃の女の子をグロテスクなまでにリアルに描いている。言ってしまえば、彼女たちは、かつての私たちそのものなのだ。その言動には否が応でも共感してしまうし、自分の後ろめたい記憶を引きずり出されることもあるだろう。海を割るように浮上し、白日にさらされた記憶は、目を背けたくなるほどに歪で醜悪である。他ならぬ自省のまなざしによって、自らの心は、焼けるような痛みすら覚えるかもしれない。
だが、『王妃の帰還』のエンディングは、それらすべてを優しく包み、肯定する。どこの誰だって、かけがえのない存在なのだと断言する。“少年少女”だけではない、誰もがプリンスであり、プリンセスなのだ。
この作品において、心に差し込む光は、己が罪を暴きだす断罪の剣ではない。むしろそれは、私たちを誇らしいものとして称える讃美の灯りなのだ……物語について、これ以上はもう何も言えない。

『王妃の帰還』を観終えたとき、私は、夕陽の光が筋になって、心の海に白くのびてゆく感覚を覚えた。命が運ばれ、この世に生を享けた瞬間を思い出したような、温かで爽やかな、根源的な感動に満たされた。不揃いで不格好な思い出たちが、西日を反射し、宝石のようにきらきら輝いて見えた。自分の今までのすべてが、愛おしく思えた。涙が止まらなかった。

だからどうか、一人でも多くの人に、この青春舞台の大傑作を観て欲しい。ダサくて地味な、だけどとってもしぶといノリスケが、王妃を帰還させる最後の瞬間まで、逃さず見届けて欲しい。物語の幕が下りたとき、今よりきっと、自分を好きになっているはずだ。


ノット

 

TAKUYAさんがラブライブ!サンシャイン‼︎に参加することの何が凄いのか?


あぁ 夢は いつまでも覚めない
歌う風のように……

 

もくじ

 

【はじめに】

こんにちは、ノットです!
早いもので、『Aqours 6th LoveLive! ~KU-RU-KU-RU Rock 'n' Roll TOUR~ 〈SUNNY STAGE〉』から2週間が経ちました。あなたはいかがお過ごしでしょうか? 私は、来る6月の追加公演〈WINDY STAGE〉に浮き足立つ日々を過ごしています。

今回のライブといえば、“シリーズ初となる2度目の東京ドーム公演” “浦の星交響楽団の出演” など、様々な“特別”を従えています。中でも、『ナゴヤドームベルーナドーム→東京ドーム』の行程は、2020年に中止となった、幻のドームツアーの再現でもあります。長きにわたる旅路の果てに、新たな約束が交わされた瞬間、走馬灯にも似た想いが込み上げた方も多かったのではないでしょうか。私もその1人です。失われた夢を取り返すAqoursちゃんを、心から誇らしく思います。

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出典: https://www.lovelive-anime.jp/uranohoshi/sp_6thlive_w.php


ところで、そんな夢の奪還劇について、先日、こんな情報が発表されました。


テーマソングの『なんどだって約束!』の、試聴動画の作曲者の欄を目にしたとき、私は思わず飛び上がってしまいました。


CYaRon! 1stアルバム『ある日…永遠みたいに!』に携わった、元JUDY AND MARY のギタリスト・TAKUYAさんが、今回のテーマソングにも参加されることが分かったのです。この時の衝撃は凄まじく、当時の私は、まるで太鼓の中にいるかのように、脈音が全身を叩きつけるのを感じていました。早い話、私は有頂天だったのです……傍目には理解し難いほどに。


1. TAKUYAさんに拘る理由はなぜか

1.1 『なんどだって約束!』の製作チームにはどんな人物がいるのか

TAKUYAさんのみならず、『なんどだって約束!』の制作チームには、錚々たる顔ぶれが揃っています。作詞の畑亜貴さんは言わずもがな、作曲陣の皆さんは『CYaRon!』『Guilty Kiss』の1stアルバムにも携わられています。2枚ともリリースは昨年ですから、活躍も記憶に新しいですね。ですが、これらは、彼等の活動の極々一部に過ぎません。本題に入る前に、まずはTAKUYAさん以外の作家陣の凄さを紹介しておきましょう。以下に載せるのは、御三方の代表的な参加作品です。

MEGさん
Fantastic Departure!/Aqours(共作曲・編曲)
Introduction/THE ORAL CIGARETTES(共編曲)
僕が僕じゃないみたいだ/Six TONES(共編曲)

Kanata Okajimaさん
DREAMY COLOR/Aqours(MEGさんと共作曲)
Love U my friends/虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会(作詞)
もっとね!/松浦果南(cv. 諏訪ななか)(作曲)
Show Me What You've Got/安室奈美恵(作詞・バックコーラス)

本間昭光さん
降幡愛(プロデュースを担当)
ポルノグラフィティ(作曲を担当)
いきものがかり(編曲を担当)
松田聖子(編曲を担当)



And more….


全てはとても載せきれないので、今回は一例の紹介に留めさせて頂きます。この時点で既に、日本を代表するアーティストの名前が並んでいますよね。御三方もまた、そんな“国民的アーティスト”に楽曲提供をしているのですから、彼等同様、日本のトップクリエイターといえます。こう見ると、『なんどだって約束!』の制作チームは、とんでもないドリーム集団ですね(もっとも、裏を返せば、Aqoursちゃんも上記の“国民的アーティスト”達の仲間入りを果たしているということでもあります。なんだか感慨深いですね)。


1.2 TAKUYAさんにこだわるのはなぜか

さて、御三方の凄さを確認したところで、話を本筋に戻しましょう。先ほど私は、「TAKUYAさんがラブライブ!サンシャイン‼︎に参加することに歓喜した」と話しました。TAKUYAさんといえば、90年代を代表するバンド『JUDY AND MARY』のギタリストで、現在まで聴き継がれる名曲をいくつも世に出した、稀代のロックスターです。バンド名は知らなくても、『そばかす』『Over Drive』など、楽曲を聴いたことはある…という方も多いでしょう。

バンドの活動期間は1992-2001年と短いものの、CDの総売上は1400万枚以上を記録し、2008年にオリコンが行った『再結成して欲しいバンドランキング』では総合一位を獲得するなど、今なお高い人気を博しています。要は凄いのです。ですが、ここまで読んで下さっているあなたは、TAKUYAさん以外の作家たちも超一流であることを承知済みでしょう。あなたは、こう思われたのではないでしょうか。「なんでTAKUYAさんだけなのか?」

極論、売れっ子だとかレジェンドだとか、そんなのはTAKUYAさんに限った話ではありません。皆そうです。ではなぜ、わざわざこの人だけを取り立てて特別視するのでしょうか。そこには、他ならぬTAKUYAさんを待望していた理由、この人でなくてはならない、明確な根拠があります。つまり、私が “TAKUYAさんがラブライブ!サンシャイン‼︎に参加することに歓喜した” 理由は、“JUDY AND MARYラブライブ!サンシャイン‼︎の世界観を体現するバンドだったから” です。

次の項目からは、邦ロック界のレジェンドと、アニメ界の生ける伝説の、奇妙な絆を紐解いていきましょう。


2. ふたつの世界観

2.1 Aqoursらしさとはなにか

タイトルにもある通り、この記事の目標は、“TAKUYAさんがラブライブ!サンシャイン‼︎にとって待望の存在である理由” を解き明かすことにあります。一見、縁もゆかりもなさそうな両者の “繋がり” を見出すため、ここからは、それぞれの根幹をなす世界観──すなわち “Aqoursらしさ” “JUDY AND MARYらしさ” を見ていきます。

なお、今回に限らず、あるものの “◯◯らしさ” には、見る人の数だけ答えがあります。その為、ここでは、なるべく主観に頼らず、客観的な情報を用いて彼等・彼女等の何たるかを話していけたらと思います。

まずはAqoursの “Aqoursらしさ” について。私は、これは “少女の二面性” だと思います。二面性とはすなわち、表と裏、陽と陰が背中合わせな間柄のことです。私は、輝きを求める彼女たちが身を置く、“スクールアイドルという世界” “彼女たち自身の心の在り方”…この2つに、“二面性” を感じています。順番に見ていきましょう。


2.2 スクールアイドルの二面性とはなにか

スクールアイドルの最高峰とも言うべき大会に、『ラブライブ!』があります。絢爛豪華な舞台で、選りすぐりのスクールアイドルたちが火花を散らすこの大会。作品によって設定はまちまちですが、いずれにおいても、決勝に駒を進めるには、とてつもなく狭い門をくぐらなければならないことが描写されています。

エントリーしたグループの中から、
このスクールアイドルランキングの
上位20位までがライブに出場。
ナンバーワンを決める大会です!
小泉花陽 (ラブライブ!1期7話より)

7236…なんの数字か分かります?
去年エントリーしたスクールアイドルの数ですわ
黒澤ダイヤ (ラブライブ!サンシャイン‼︎ 1期8話より)


20/7236。とんでもない倍率です。
参考までに、日本一の若手漫才師を決める大会『M-1グランプリ2020』では、決勝進出の10枠をかけて、5081組のコンビがエントリーしています。これとほぼ同規模と思うと、『ラブライブ!』に勝ち進むことが、どれだけ大変かが分かるでしょう。華やかさとは裏腹に、そこでは、“普通の女の子” には過酷すぎる程、熾烈な競争が繰り広げられているのです。

また、“学校でアイドルをする” という性質上、スクールアイドルの中には、Aqoursのように学校全員の期待を背負っているものも少なくありません。そういった者たちにとって、否が応でも勝敗・優劣が決まる大会は、二度と立ち上がれない傷を負わせる “断罪の儀式” ともいえるのです。華やかさと過酷さ。これが、私が考える“スクールアイドルという世界”の二面性になります。

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出典: ラブライブ!サンシャイン!! #8「くやしくないの?」

 

2.3 Aqours自身の二面性とはなにか

このような、煌びやかで残酷な世界に身を置く千歌たち。彼女たちもまた、“元気さの中にどこか影を秘めた二面性の持ち主” といえます。それが顕著にあらわれている一例に、彼女たちがラブライブ!勝戦で披露した楽曲『WATER BLUE NEW WORLD』があります。

夢は夢のように過ごすだけじゃなくて
痛みかかえながら求めるものさ
WATER BLUE NEW WORLD/ Aqours


『スクールアイドル Aqours』として足掻き続けた彼女たちは、皆の夢を叶える為・現実に抗う為に何をすべきかを探し続けており、遂に辿り着いた回答というのがコレでした。泥まみれというより、もはや傷まみれでしょう。“心血を注ぐ” なんて言葉がありますが、この歌詞に限って言えば、文字通り、生き血を注いだペンで書き上げたのではないかと思わせる程の迫力があります。

そして、皆の夢とはご存知の通り “統廃合の決まった浦の星女学院の名前を、ラブライブ!の歴史に刻む” ということです。この統廃合は、『TVアニメ』『電撃G'sマガジン』『漫画版』など、あらゆるメディアに共通する、極めて重要な設定となっています。アニメに限らず、統廃合は、心身を引き裂かれるくらい強烈な痛みを伴って描かれています。ここでは、『漫画版 ラブライブ!サンシャイン!!』から、とある場面を紹介しましょう。

もうなにをするのも どうしようもなく
人数が足りないんだよ この町(…)
あの子たちが私たちくらいの歳になる頃には
もう浦女はなくなってて 地元の高校に通える子も
いなくなっちゃうんだよね(…)
そう思うと せめて今日はにぎやかにしてあげたいなって
高海千歌 (ラブライブ!サンシャイン!! 第8話より)


少し補足をすると、この台詞は、千歌が梨子を『内浦春のビッグイベント 内浦こども浜祭り』に連れて行った際に発したものです。

アニメと異なり、漫画では、物語開始時点で浦女の廃校が決定していました。明言こそされていないものの、その理由は恐らく “入学希望者の不足” で、それを裏付けるように、劇中でも、千歌たちの担任が「人数が減り続ける一方」と話しています。

この祭りも人口減少の煽りを受けており、参加者の小学生たちは、『お店屋さん』と『お客さん』を交代で代わらなければなりませんでした。そうでもしないと、イベントが成り立たなかったのです。千歌は、そんな祭りの現状を知っており、後輩たちに想い出を残してあげたい一心で、転校してきたばかりの梨子を連れ出したのでした。

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出典: 公野櫻子, おだまさる(2017).  ラブライブ!サンシャイン!!② p.42

 

統廃合は、いつか必ず迎える、逃れようのない結末です。ですが、それは決して未来の出来事──今と切り離された事象ではありません。すなわち、この瞬間にも千歌たちは、人のいない寂しさや、一緒にいる友達とバラバラになる寂しさを、切実に感じて生きているのです。寂しさはあまりに大きく、あまりに身近にあるせいで、目を背けることも出来ません。どんなに辛くても、現実と向き合うほかありません。つまり、彼女たちは、夢みる少女ではいられないのです。

このように、千歌たちは劇中で様々な痛みを知り、今まさに子どもから大人になろうとしています。彼女たちは、昼と夜が重なる一瞬、青春の夕暮れ時を生きているのです。私はこの “スクールアイドルという世界”と“彼女たち自身” の “二面性” こそが、ラブライブ!サンシャイン‼︎らしさ、ひいては作品の世界観であると考えています。

そして、この性質は、JUDY AND MARYの世界観を語る上でも必要不可欠な、最重要ワードとなっています。なぜなら『JUDY AND MARY』というバンド名は、他ならぬ “少女の二面性” に由来しているからです。


2.4 JUDY AND MARYらしさとはなにか

JUDY AND MARYは、

の四人からなる、日本のロックバンドです。

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※ 左から, 恩田, TAKUYA, YUKI, 五十嵐 (敬称略)


バンド名の由来について、リーダーの恩田さんは以下のように語っています。

前向きになれる時とそうでない時を、
ポジティブなJUDYとネガティブなMARY
という女の子の名前に伏せて、
ポジティブな面もネガティブな面も
ちゃんと見つめて音楽を作っていきたいと思った
出典: ミュージックステーション(1994. 7. 11放送回より、一部改変)


恩田さん曰く、対をなす感情を女の子の名前に伏せたのは、ボーカルのYUKIさんが女性だったからとのこと。この“ポジティブとネガティブを併せ持った女の子” というテーマは、まさにAqoursの持つ “少女の二面性” とピッタリ一致しています。

JUDY AND MARYは、9年間という短い活動期間の中で、音楽性を目まぐるしく変化させています。特に、初期と後期は、全くの別物と言っていいでしょう。ですが、上記の根本的なテーマに限っては、最後までブレることなく、一貫して音に込められています。では、二面性を持った曲とは、具体的にはどんな曲なのでしょうか?


3. 二面性を持った楽曲とはなにか

3.1 初期のオススメ楽曲~J.A.M.からORANGE SUNSHINEまで

ここからは、90年代を駆け抜けたバンドの歴史、もとい、彼等の時代ごとの音楽性・代表曲を辿っていきます。

JUDY AND MARYは、短い活動期間の中で、絶えず音楽性を変化させ続けたバンドです。よって、ここでは、音楽の性質をもって、彼等の活動期間を前期、中期、後期の3つに分割。時代毎の特徴やオススメの楽曲を紹介していこうと思います。なお、オススメ楽曲は、各時代6曲ずつを予定しています。例によって、初期から順に見ていきましょう。

この頃の音楽性の特徴は、一言でいえば “両極端” です。少女の “ポジティブ・ネガティブ” は、曲ごとに独立して表現されています。

初期のアルバムでは、“楽曲Aは底抜けに明るいのに、楽曲Bは打って変わって焦燥感を掻き立ててくる(あるいは、しっとり聴かせるバラードが展開される)” といった構造が多くみられます。もちろん、どんなアーティストのどんなアルバムでも、ポップとバラードが入り混じること自体は、特別珍しくありません。ただ、彼等の初期の作品群に関しては、曲ごとの旋律の振れ幅が、殊更に大きいように感じます。感情が、激しく浮き沈みしているとでも言うのでしょうか。

このような手法が用いられる理由について、個人的には、まるで異なる曲調の楽曲を代わるがわる奏でることで、“少女の気性の激しさ” “危なっかしいまでの気まぐれさ” を、効果的に表現しようとしたからだと考えています。電球がビカビカ明滅するように、ポジティブとネガティブを行ったり来たりしているイメージです。

そんな初期のオススメ楽曲は、次の6曲です。

  1. BLUE TEARS
  2. DAYDREAM
  3. Hello!Orange Sunshine
  4. Radio
  5. 小さな頃から
  6. 自転車


これらの楽曲はすべて、『COMPLETE BEST 「FRESH」』で聴くことが出来ます(奇しくも、曲順まで一緒に収録されています)。6曲を性格ごとにまとめると、

【ポジティブ】
・Hello!Orange Sunshine
・Radio
・自転車

【ネガティブ】
・BLUE TEARS
・DAYDREAM
・小さな頃から


と、丁度半々で分けることが出来ます。中でも『DAYDREAM』は、先述の焦燥感を掻き立てる楽曲に該当します。この曲について、作曲者の恩田さんは、『FRESH』のライナーノーツにて、「追いつめられているような緊張感と気持ちが、一番出ていた頃の曲」と綴っています。急かすようなアップテンポと、悲壮感漂う歌詞が絶妙にマッチした、初期を代表する名曲と言えるでしょう。

道端の花をにぎりしめたまま
こわれてく心
どうか泣かないで…
DAYDREAM/ JUDY AND MARY


それとは対照的に、『自転車』は、先の底抜けに明るい楽曲にあたる、ポジティブさ全開のポップ・ナンバーです。爽快なメロディと無邪気な歌詞からは、女の子のみずみずしさが、眩しい位に伝わってきます。また、『ラブライブ!サンシャイン!!』︎と絡めた話をすると、私は個人的に、この曲を渡辺曜のイメージソングに位置付けています。彼女の天真爛漫な部分が遺憾なく発揮された『突然GIRL』と、併せて聴いてほしい一曲です。オススメ!


3.2 中期のオススメ楽曲~MIRACLE DIVINGからTHE POWER SOURCEまで

この頃の音楽性の特徴は、なんといっても “ポジティブとネガティブの融合” です。両者を交わらないもの、二者択一のものとして表現し分けていた初期とは一線を画す、転機が訪れたのです。転換の旗手を務めたのは、のちにファンの人気投票で1位を獲得する名曲『Over Drive』でした。

Over Drive
作詞: YUKI 作曲: TAKUYA

もっと遊んで 指を鳴らして 呼んでいる声がするわ
本当もウソも 興味がないのヨ
指先から すり抜けてく 欲張りな笑い声も
ごちゃまぜにした スープに溶かすから

夜に堕ちたら ここにおいで
教えてあげる 最高のメロディ

あなたはいつも ないてるように笑ってた
迷いの中で 傷つきやすくて
地図を開いて いたずらにペンでなぞる
心の羽根は うまく回るでしょ?

音に合わせて 靴を鳴らして
あたしだけの 秘密の場所

走る雲の影を 飛び越えるわ
夏のにおい 追いかけて
あぁ 夢は いつまでも 覚めない
歌う 風のように…

夜に堕ちたら 夢においで…
宝物を 見つけられるよ…
信じてるの…

愛しい日々も 恋も 優しい歌も
泡のように 消えてくけど
あぁ 今は 痛みと ひきかえに
歌う 風のように…

走る雲の影を 飛び越えるわ
夏の日差し 追いかけて
あぁ 夢は いつまでも 覚めない
歌う 風のように…


歌詞で目を引くのはやはり、“明らかにネガティブな” フレーズの数々でしょう。傍線を引いた箇所がそれにあたります。本来ならば、これらの “身を切るような痛み” を綴った歌詞はすべて、疾走感のある曲調とは相反するものです。矛盾しているとも言えるでしょう。ですが、そんな理屈など吹き飛ばすかのように、この曲は、邦楽史に燦然と輝く金字塔として君臨しています。

作曲者のTAKUYAさんは、『FRESH』のライナーノーツにて、「この曲をつくったあと、興奮して散歩したのを忘れない」と当時を回顧していますが、私も、この曲を初めて聴いたとき、頭が割れるような衝撃を受けたのを覚えています。

そんな中期のオススメ楽曲は、次の6曲です。

  1. Over Drive
  2. ステレオ全開
  3. そばかす
  4. クラシック
  5. The Great Escape
  6. エゴイスト…?


Over Drive』を筆頭に、バンドの代表曲を並べています。特に、『そばかす』は、TVアニメ『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚』のOPに起用されたこともあり、頭ひとつ抜けて高い知名度を誇っていますね。この曲も、『Over Drive』同様 “ポジティブとネガティブが融合した曲” のひとつです。

ラブライブ!サンシャイン!!』における『P.S.の向こう側』『Pops heartで踊るんだもん!』など、明るい曲調と、曲調とは正反対の切ない歌詞が特徴の楽曲が好きな方には、特に刺さるのではないでしょうか。

それに加えて、『クラシック』は、上の2曲とは異なる意味で革新的な楽曲です。

この曲は、別れが決定的となった恋人が、互いを想いあっていた頃を懐かしむ、いわゆる失恋ソングです。普遍のテーマを扱うこの曲の“新しさ”は、歌詞に極めて高水準の『反実仮想』を盛り込んでいる点にあります。

反実仮想とは、事実に反することを仮定して想像する、英語の仮定法にも似た修辞技法です。主に「もしも◯◯だったら…だろうに」の形で使用し、実現不可能な願いを書くことによって、そうでない現実の哀しさを際立たせます。『クラシック』でも、この反実仮想が使用されているのですが、用いられ方は、まさに常軌を逸しています。

今アツイキセキが この胸に吹いたら
時の流れも 水の流れも 止まるから
クラシック/ JUDY AND MARY


ここでは、1行目が“仮定”、2行目が “想像” にあたります。重要なのは、時の流れと水の流れが「止まる」という部分です。本来ならば、破局を免れない恋人が望む “実現不可能な願い” といえば当然、二人の復縁でしょう。すなわち、時間が “止まる” のではなく “戻る” ことで、両者の関係が修復されるのを願うはずなのです。にもかかわらず、この曲ではそれを行いません。あくまで、時間も水も “止まる” に留まっています。

これが意味するのは、“修復を願いすら出来ない程、2人の仲が冷めきっている”ということ。つまり、『クラシック』は、手の施しようが無いまでに破綻した関係を、たった1つの言葉遣いで表現してしまったのです。圧巻ですね。この、通常の更に上を行く形で駆使される反実仮想は、先の “ポジティブとネガティブの融合” に並ぶ発明であると思います。

また、ここまでは目新しさばかりに注目してきましたが、中期には、当初の『突き抜けたポジティブ・ネガティブ』という傾向を更に強めた、先鋭的な楽曲も数多く存在します。それぞれ、『ステレオ全開』『The Great Escape』は前者の、『エゴイスト…?』は後者の、特にオススメな名曲です。

『ステレオ全開』『エゴイスト…?』は、ファン投票によるベスト盤『The Great Escape -COMPLETE BEST』、『The Great Escape』は、4thアルバム『THE POWER SOURCE』で聴くことが出来ます。ものすごくややこしいですが、そこはご愛嬌で(笑)。

この口唇が いつか疲れて 声がかれても
歌ってあげるわ その胸に届け
ステレオ全開/JUDY AND MARY

Yes 高い空! 青い海! 澄んだ空気!
思いきり深呼吸
自由が生まれる瞬間に 深く礼をしよう!
The Great Escape/JUDY AND MARY

落ちかけたマニキュアが 気にもならないくらい
本当は苦しいの 知らないことばっかり……
エゴイスト…?/JUDY AND MARY

 


3.3 後期のオススメ楽曲~POP LIFEからWARPまで

この頃の音楽性は、一言でいえば “滅びの美学” です。

滅びの美学とは、“個人や集団がみせる、散り際の美しさ”、もしくは “永遠に失われるものの、束の間の美しさ” を指す言葉です。詳しくは後述しますが、JUDY AND MARYの6thアルバム『WARP』は、解散を前提に制作されたラストアルバムでした。“終わり” を見据えてひた走る彼等の姿には、とりわけ統廃合決定後の千歌たちと重なる部分が多くあります。

両者の“繋がり”をより深く感じるために、ここでは、当時の彼等を取り巻いてきた環境と、バンド解散までの一部始終を紹介しておきましょう。

時間は遡り、中期のアルバム『MIRACLE DIVING』『THE POWER SOURCE』は、いずれも大ヒットを達成します。2022年3月現在、アルバムはそれぞれ約100万枚、300万枚という驚異的な売上を記録しており、JUDY AND MARYは、一気にスターダムを駆け上がりました。1996年には、初の紅白歌合戦出場も果たし、バンドは、名実ともトップアーティストの仲間入りを果たしたのでした。

ですが、人気絶頂を迎えるその裏で、彼等は、ボーカルのYUKIさんの喉の手術や、5thアルバム『POP LIFE』の難航など、いくつもの受難に見舞われます。彼等は元々、アルバムを作るときは毎回、「ここで終わっても良い」と思う程に全力を注ぐ制作体制を取っていましたが、それは、言い換えれば無茶の連続でした。そして、難産の末に『POP LIFE』を発売した1998年の年末、限界を迎えたバンドは、その活動を休止。1年の充電期に入るのでした。

バンドは2000年に活動再開を宣言するものの、以降の活動は、いわゆる “完全復活” ではなく、むしろ “ファンへのけじめ” としての意味合いを強く持っていました。というのも、彼等は既に解散を決めていたのです。メンバーは、このまま無理に活動を続けるよりも、潔く区切りを付ける方を選び、残された時間を “バンドをちゃんと終わらせる” 為に使うことにしたのでした。

かくして、2000年2月より、先行シングル『Brand New Wave Upper Ground』の発売を皮切りに、解散を前提にした6thアルバム『WARP』の制作が開始されます。そして、活動再開から1年が経った2001年の1月。彼等は『WARP』を完成させ、アルバムの発表と同時に、正式に解散を発表します。その後、同年の3月8日、出来たてのアルバムを携えたライブ『WARP TOUR』の千秋楽を以て、JUDY AND MARYは解散しました。ラストライブの会場は東京ドーム。彼等にとって2度目の東京ドーム公演でした。

さて、このような経緯もあり、彼等の後期の音楽からは総じて、そこはかとない終末感が漂っています。ポップだろうとバラードだろうとお構いなしに、破滅的なオーラがまとわり付いているのです。そんな、“二面性の極致” とも取れる後期のオススメ楽曲は、次の6曲です。

  1. 散歩道
  2. ステキなうた
  3. LOVER SOUL
  4. Brand New Wave Upper Ground
  5. mottö
  6. ひとつだけ


※挙げた楽曲の大半はベスト盤で聴けますが、
『ステキなうた』だけは、オリジナルアルバムでしか聴くことが出来ませんので注意ください
※ここには載せていませんが、『ひとつだけ』に関しては、『Suger cane train』『ガールフレンド』と併せて聴くことをオススメします

前半の3曲は5thアルバム『POP LIFE』に、後半の3曲は、6thアルバム『WARP』にそれぞれ収録されています。

JUDY AND MARYは、メンバー全員が曲を作れる類稀なバンドでした。中期までに紹介した楽曲は、全て恩田さんかTAKUYAさんが手掛けたものでしたが、『散歩道』は、ドラマーの五十嵐公太さんが作曲を担当しました。

趣旨からはやや逸れますが、この『散歩道』は、全体を通して牧歌的な雰囲気に溢れる名曲です。四季折々の要素を盛り込んだ歌詞からは、パステルカラーの情景や、心の原風景が連想されます。開放的な曲調も相まって、聴くと思わず外を歩きたくなるような一曲に仕上がっています。

なお、バンドはこの曲で2度目の紅白歌合戦出場を果たしており、作曲者の五十嵐さんも、『FRESH』のライナーノーツにて「自分が一番驚いてるさっ。こんなすげえ曲を書けたことにね」と述べています。

続く『ステキなうた』『LOVER SOUL』は、バラード調のロック──いわゆる『ロックバラード』です。前者の『ステキなうた』は、バンドにおいて、恩田さんが最後に手掛けた楽曲でもあります。

この曲は、曲調自体は比較的明るいながらも、楽器隊が奏でる乾いた音色からは、どこかあっけらかんとした印象を受けます。そして、曲を聴き終える頃には、今年初めての冬風が吹き抜けた時のような、漠然とした虚しさ・喪失感を感じるのです。“ポジティブな面もネガティブな面もちゃんと見つめて音楽を作って” きた恩田さんの、集大成と言うべき秀作。ベスト盤には未収録ですが、是非とも『POP LIFE』でお聴き頂ければと思います。

あの優しいうたは なぜ哀しくなるんだろう?
空は茜色に染まってく
潮風が冷たい海辺
ステキなうた/JUDY AND MARY


さて、長らく続けてきた楽曲紹介もいよいよ大詰め。最後に紹介するのは、6thアルバム『WARP』のオススメ楽曲です。

『ステキなうた』で感じた漠然とした喪失感は、ついに、歌詞という目に見える形で聴き手の前にあらわれます。喩えるなら『WARP』は、緞帳を下ろし始めてから、幕が完全に閉じるまでの刹那を切り取ったようなアルバムです。Aqoursが、『WONDERFUL STORIES』で物語に幕を下ろしたように、彼等は、アルバム全部を用いて、自身のキャリアに終止符を打ったのです。それは、活動再開後に初めてリリースした『Brand New Wave Upper Ground』でさえ、例外ではありませんでした。

この曲には、今後バンドが迎える結末を暗示するかのような歌詞が、至る所に散りばめられています。

2人で夢を見ている 胸を痛めて揺れてる
愛しい日々は旅を終えて赤道線の上
Brand New Wave Upper Ground/ JUDY AND MARY

曖昧なままで ここまで泳いできたけど
つないだ指先 未来教えてくれるから
Brand New Wave Upper Ground/ JUDY AND MARY

振り向かずに行くわ シャツのすそ はためかせて進め
Brand New Wave Upper Ground/ JUDY AND MARY


次の『mottö』は、俗に『TAKUYA節』と呼ばれる、奇抜なコード進行が炸裂した楽曲です。この曲では、全楽器隊が、ソロパート並みの演奏を全編に渡って続けます。私の軽音楽部のリア友をはじめ、ギター弾きはしばしば、「JUDY AND MARYは難しい」と言うのですが、この曲は、素人の私でさえ言葉の意味が分かる程、べらぼうに高い難易度を誇っています。

また、同じくTAKUYAさんが手掛けた、『CYaRon!』の『Whistle of Revolution』は、まさに『ラブライブ!版 mottö』といえる楽曲です。ハチャメチャさから、理解を超えた超絶技巧まで、あらゆるイメージを共にしています。

そして、本記事の締めくくりを飾る曲にして、私が最も愛する楽曲。それが『ひとつだけ』です。この曲は、「全オリジナルアルバムを通じて曲順最後の曲」で、“疾走感” と “切なさ” の二面性を最高レベルで両立させた、永久不滅の大傑作・バンドのマスターピースです。

この曲にはいくつかのバージョンが存在しますが、特にオススメなのは『WARP』で聴ける『ひとつだけ -ver. WARP-』です。このバージョンでは、大サビと共にギターの音色が抜けた後に、インスト楽曲の『WARP』が流れます(ややこしいんですが)。このインスト楽曲は、それまでアルバムの世界に引き込まれていた聴き手を、逆に、現実に引き戻す役割を担っています。

楽曲としての『WARP』は、時間にして1分にも満たない短尺の曲です。ですが、その体感時間は、一瞬のようでもあり、同時に、極めて膨大なようでもあります。喩えるなら、SF映画スターウォーズ』に登場する超高速航法『ハイパードライブ』に乗ったような、極限まで圧縮した永遠を泳いでいる時みたいな、何とも不思議な気分になるのです。

そして、得もいえぬ余韻を残して『ひとつだけ』は終わり、ロックバンド『JUDY AND MARY』は、ここに完結を迎えます。“少女の二面性”を、最後まで描き続けた9年間でした。

あたしがもし咲いたら 君の手で照らして
あたしがもし泣いたら 君の唄で空を青くさせて
ひとつだけ/ JUDY AND MARY

 

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出典: ラブライブ!サンシャイン!! 2nd Season #13「私たちの輝き」


【おわりに】

いかがだったでしょうか?
今回は、『ラブライブ!サンシャイン‼︎』『JUDY AND MARY』に共通する世界観と、バンドの往年の名曲に着目し、“TAKUYAさんがラブライブ!サンシャイン‼︎にとって待望の存在である理由” を紹介させて頂きました。

結論として、私は、バンド活動を通して“少女の二面性” を描き抜いたTAKUYAさんは、『ラブライブ!サンシャイン‼︎』の世界観を、もっとも的確に、かつ、もっとも劇的に表現できる音楽家の1人であると考えています。

事実、TAKUYAさんが初めて携わった『ある日…永遠みたいに!』は、未知への“期待”と“不安”が見事に内包された、紛れもない『ラブライブ!サンシャイン!!』楽曲でした。バンド解散後もなお第一線で活躍し、研ぎ澄まされてきた、彼のセンスが爆発していたように思います。

そんなTAKUYAさんが、Aqoursの2度目の東京ドーム公演の、テーマソングに携わるのです。もう何度、試聴動画を見たか分からないし、今からフルが楽しみで仕方ありません。

彼は、Aqoursにどんな変化をもたらすんでしょう?
Aqoursはどうなっちゃうんでしょう?

最後まで読んで下さったあなたが、少しでも胸を躍らせて下さったのなら……彼等の音楽に興味を持って下さったのなら。私としては、こんなに嬉しいことはありません。改めて、長時間お付き合い下さいまして、ありがとうございました!

あぁ 夢は いつまでも覚めない!
歌う、風のように!

Over Drive

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ひとつだけ

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Special thanks
センケイさん、はまーさん、高校の同級生
記事の構成や表現について、素晴らしいご助言を下さいました。また、センケイさんは、私と同一のテーマでブログを書かれていますので、理解を深めたい方はぜひ足を運んでみて下さい! 皆さん本当にありがとうございました!

https://a16777216.hatenablog.com/entry/windy_and_mary


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